会長挨拶
-早稲田人の恩返し-
平成24年10月吉日
多摩稲門会会長 依田 敬一

私が早稲田に籍を置きはじめてから既に半世紀が過ぎました。
50年というと長いようですが実にあっという間の50年ですね。
思い出してみると、早稲田での強烈な思い出は教室に無くほとんどが野外でありました。
高等学院と大学を通じて7年間お世話になった中で早稲田らしい印象を思い出してみましたが、やはり、何といってもナンバーワンは神宮球場での早慶戦でありましょう。昭和35年の早慶6連戦もしっかりと通わせていただきました。
大学では、スキー部で早慶戦の応援用具を売るお手伝いをするとその代償として応援部のすぐ後ろの席をいつも用意してくれていました。そして、ここで応援歌の大半を覚えたものです。
早慶戦の後、新宿で馬鹿騒ぎをしたことは今でも脳裏に焼きついています。
大学を卒業して数年経った昭和45年もしくは翌46年の学園紛争の終盤、大学がキャンパスをロックアウトした際どこからか集合が掛かかりました。会社を終えて大学にかけつけると当時の野球部監督の石井藤吉郎さんのもとに100人近くの運動部OBの連中が集まりヘルメットを被って手に金剛杖を持たされ夜通しキャンパス内の見回りをしたものです。これが思い出の2番目ですかね。
冬季オリンピックのコルチナダンぺッツオで3冠王となったトニーザイラーは当時黒い稲妻ともてはやされ日本でも大変な人気で日本中にスキーブームを巻き起こしました。映画でザイラーと共演した女優の鰐淵晴子さんが東伏見の合宿所に遊びに来たことがりますが何で来たのか今でも不思議です。当時の早稲田大学スキー部は黄金期でオリンピック候補選手が大勢いたのでその縁なのかななどと思っていましたが・・。
スキー部には雪国で育った多くの選手が集い、北海道弁、津軽弁、信州弁などが飛び交いそれは賑やかなものでした。1学年違いの厳しさがあるのはどこの運動部でも一緒ですが、合宿所や冬の合宿で24時間寝食を共にすると家族以上に親しくなっていっぺんに兄弟が大勢になった気にさせられます。
在学中の昭和37年から40年までの4年間、スキー部は全日本大学スキー選手権の覇者として君臨しました。本当に強かったのは、個々人の力よりも「For the Team」の気持ちがあったからです。こうして早稲田精神が摺りこまれ、友のためそしてチームのためつまりは世のため人のためを勉強させられた気がいたします。
今、多摩稲門会の会長として何をしなければいけないのかを考えますと、早稲田に世話になったことそして世の中に世話になったことの中身は会員個々に違いますが、それぞれが受けた恩を多摩稲門会の諸活動を通じてそっと返すことではないかと思っています。
校友の皆様、多摩稲門会においでください。そして早稲田を応援してくださる関係者の皆様、出来るだけ一緒になって私どもの活動を見守ってください。
是非、今後ともよろしくお願い申し上げます。
【補足】
多摩稲門会は東京都多摩市在住、在職、あるいは本会の主旨に賛同して加入された会員で構成される早稲田大学校友会です。本会は会員相互の親睦を図り、併せて母校の発展と地域文化の向上に寄与する事を目的として活動しております。現在会員数は約150名です。