早稲田野球を語る会
2015年12月27日
12月16日夕方「鳥はな」で野球部OBの亀田さん(昭和35年卒)を 囲んで、田中さん、浪久さん、吉川さん、鷹尾さん(日野稲門会)、湯浅が野球談議を楽しみました。
亀田さんは昭和34年に早稲田が大学選手権に初優勝した時に外野手で活躍されました。卒業後は野球部OB会である稲門倶楽部を代表して東京六大学 野球連盟理事の要職を務められました。それだけに人脈も広く早稲田のみならず他大学の事情についても精通された方です。
今年の早稲田大学野球部は、リーグ戦春秋連覇と大学日本一を達成した輝かしい一年でしたが、一方で早慶六連戦を勝利に導いた石井連蔵元監督が9月 27日に逝去(享年83歳)された事は誠に悲しく謹んでお悔やみ申し上げます。 昨年6月「文化フォーラム」でお話し頂いたのが最後の講演だったとの事です。 会の冒頭に、故石井元監督の愛弟子でご信頼の厚かった亀田さんの発声で献杯してから年忘れの宴に入りました。
(1)石井監督と安藤投手アルコールのピッチが上がるにつれて話が弾みましたが、何といっても石井元監督(以降石井さんとします)の話題からでした。亀田さんは石井さんの猛ノックの凄まじさについて話されましたが当時我々も安倍球場のスタンドから見ていただけにその光景が蘇りました。「鬼の連蔵」の異名がピッタリであった一方で、酒豪で数々のエッピソードがあり、根は優しい方だった実像をお聞き しました。お話しの端々から石井さんが今もOBの方達から敬愛されている事が良く判りました。続いて安藤投手の話になりました。亀田さんによりますと「普通新人が打撃練習で上級生に投げる時には打ち易い球を投げるのだが、安藤投手は違っていた。内角ギリギリ一杯にノケゾルようなえげつないシュート ボールを平然と投げ込んできた。余程球威とコントロールに自信があったのだと思う。打っても詰まらされてしまう。寡黙で練習熱心な良い男だった」そう です。
(2)長嶋・中西・石井藤吉郎さん話題は過去の名選手の話になりました。亀田さんは長嶋の8号ホームランを 選手席から見ていたそうです。最終試合で新記録の本塁打を打っただけでなく 続いてヒットを打って打率でも今迄1位の選手を抜いて首位打者を取ったのだから本当にすごい選手だったと話されました。私も長嶋は六大学史上最高のスタープレイヤーと思います。 一方で、早稲田志望の中西を三原さんが惚れ込んで西鉄に強奪してしまったがもし、早稲田に進んでいたら本塁打は10本位打っていたのではとの話になりました。次に明治の高山の通算131本安打新記録が話題になりました。しかし高山の記録は4年間であったのに対して、石井藤吉郎さんは戦争の為昭和23~ 25年の3年間しかプレー出来なかったのに114本安打しました。1年38本ですから仮に4年間だったら、38 x 4 =152本となる勘定です。因みに高山は 3年終了時に100本ですから石井さんが如何に素晴らしい打者だったかが判ります。亀田さんは石井さんが55歳の頃、何かの試合のPHで打席に立って クリーンヒットを打ったのを見てど肝を抜かれたそうです。又現役時代六大学リーグ戦で森監督から「試合を決めて来い」と言われて「ハイ。判りました」と答えて3番の荒川宗一さんが二塁打を打った後で石井さんがライトオーバーの豪快な本塁打を打って勝利を決めたとの事です。抜群の長打力と正確なヒット打ちの技術を併せ持った桁外れの選手だったとコメントされました。 以上の事から、僭越ながら私は石井藤吉郎さんが戦後六大学の最高の左打者だと信じています。
(3)三原さんと高橋監督亀田さんは、前日の15日に野球部同期会があり、同期の一人が近藤昭仁に「三原マジックとは何ぞや?」と質問したのに対し、近藤は「三原さんは練習を黙って実に良く見ていて選手の調子を見極めて試合の作戦を立て的中したのであり、決し奇を狙ってはいなかった」と答えたそうです。翻って「高橋監督もやっぱり黙って長時間練習を見ているので三原さんと通じるものがある。又1~2年時の監督の森さん、3~4年時の石井さんもそうだったので早稲田の伝統は脈々と受け継がれている」と述べられました。それを聞いて私は高橋監督のこれからの采配に期待を大きくした次第です。