「いねの会」の名幹事を偲ぶ会
2016年05月01日
カラオケサークル「いねの会」の幹事だった故金谷勇作さんが逝って7カ月が過ぎた。遅ればせながら「金谷さんを偲ぶ会」が4月27日夕、多摩市の和食店「和桜」で開かれた。この店の所在地は金谷さんのお宅と同じ桜ヶ丘2丁目。それだけ金谷さんを身近に感じることができるだろうということも会場に選んだ理由の一つ。
聖蹟桜ヶ丘駅や永山駅からバスに乗り、桜ヶ丘四丁目のバス停前の店に16人の参加者が集まった。午後5時過ぎ青木会長の発声で献杯した後、参加者が1人ずつ故人を偲んで思い出話などをした。そのたびに生前の金谷さんが甦るように感じられた。
昨年7月の「いねの会」月例会には浴衣掛けで参加していた金谷さんが8月の番外・納涼ビール会には欠席した。その時の連絡メールが改めて紹介された。「酒が飲めなくなり、人生の楽しみの一つがなくなった」と。
入院先の病院でたまたま一緒になった方は家人から手遅れであると聞かされていたが、本人はそうと知らなかったようだ。その後、小林会員が10月初めに見舞いに行き、もう家に帰ったと言われた時には家族が弔った後だった。それで「いねの会」としてもお別れの会を行いたいとかねがね思っていたが、ようやく実現したものである。
金谷さんは早稲田のハイソサエティー・オーケストラのトロンボーン奏者だった。タマドリーム・ジャズオーケストラでも活躍したが、トロンボーンが吹けなくなったと退団。その頃から体調を崩していたのではないかと少なからずの人が推測して言った。
金谷さんは「いねの会」が立ち上がった平成14年以来のメンバー。会員一人ずつ歌う唄を聞き、カラオケに入れていた。歌い締めは校歌「都の西北」と応援歌「紺碧の空」。それを愚直にやり通した。
選曲は「マイ・ウエイ」をはじめ横文字の歌が多かったが、「哀しみ本線日本海」のような唄も歌った。秋田・能代の老舗料亭が実家だったせいもあるだろう。