「万葉集と大津皇子」をテーマに「歴史に遊ぶ会」
2016年05月29日
多摩稲門会のサークル「歴史に遊ぶ会は」は5月23日午後4時から多摩市永山の蕎麦酒房で第32回例会を行った。「万葉集と大津皇子の真実」をテーマにした歴史談会で5人が生ビールで喉を潤しながら懇談した。歴史談の要旨は以下の通り。
大津皇子は天武天皇の第三子で母親は大田皇女(天智天皇の皇女)だが、天武天皇が崩御され、持統天皇の御代の686年、謀反の疑いで死を賜った。
万葉集に「うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟瀬と我れ見む」という姉の大伯皇女の歌があり、「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に」という前書きがある。このため皇子の墓所は奈良県の二上山の頂上にあると言うのが通説であるが、最近は山頂ではなく麓の鳥谷口古墳が皇子の墓所という説も強まっている。
一般には持統天皇がご自身の皇子である草壁皇子を帝位に就けたいために皇位を脅かすおそれがある大津皇子を死に追いやったと考えられている。しかし、672年に天智天皇の皇太子と大海人皇子(天武天皇)が戦った壬申の乱では大津皇子は天武天皇と妃の持統天皇の側についた。持統天皇は後々、天武天皇側についた人たちに感謝された。大津皇子も例外ではなく、持統天皇が大津皇子の謀反をでっちあげるはずがない、という説もある。
それではなぜ謀反の疑いが生じたのか。それは壬申の乱後、不遇だった勢力が大津皇子を担ぎ上げたとも考えられている。大津皇子は「容姿がたくましく、言葉は晴れやか、分別よく学才にすぐれ、文筆を愛した」(日本書紀)とされ、天皇に担ぎ上げるのにふさわしい人物であったようだ。大津皇子は当時まだ24歳、覇気もあり、負け組みの誘いに乗ったという考えは一応成り立つ。
大津皇子と草壁皇子は石川郎女という女性をめぐり対立していたらしい。万葉集に「 大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首」として「あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに」が載っている。皇子が女性を山で待つ、つまり2人の関係が世を忍ぶものであることが暗示される。石川郎女は「その山のしづくになることができたらよかったのに」と相手に応える気持ちを詠んでいる。一方、草壁皇子は「束の間も我れ忘れめや」と牽制の歌を詠んでいる。これは後から別人が作った歌物語かもしれない。万葉集は歴史的事実を伝えるものではないが、古人の心を反映したものではあろう。
以上のような話をした後、次回は6月末に鎌倉五山巡りをしようと申しあわせた。鎌倉稲門会の会員にガイドをお願いする話を進めている。