風前の灯火が遂に消えた!
『グルメの会』終了の顛末
多摩稲門会の人気サークルだったグルメの会(『グルメの会』) の命脈が9月末をもって尽きました。
これを予期したのは多摩稲門会の創設者櫻井和子さんが世話人だった私に対し、「グルメの会(の世話人)をずっと続けてくださいね」とさりげなく告げた時でした。コロナ患者数が増減周期の合間にわずかに減った際に開いた「お試しグルメの会」の席の話です。バランス感覚や気配りに優れる一方、お茶目で気の置けない逸材だった櫻井さんにしては随分な見当はずれ発言と感じた私は、ややムッとして「世話人はすぐに辞めたいんです」と申し上げました。
週5日程度のウォーキングで持病の高血糖を抑え込んできた私に対し、コロナはとんでもない被害を与えました。政府の外出制限で歩く会がほぼ全面的に中止となったのです。
15キロ前後歩き続けてきた身には、ひとりで自宅あたりを3、4キロ歩いたところで焼け石に水。血糖値はたちまち癌発症リスクの境目8・0を超えていたのです。
櫻井さんは残念ながらこの1月に他界されました。お試しグルメの会の時点で病はかなり進行していたのでしょう。
さて、グルメの会。私は世話人を12年続けました。持病の重症化が進み後任探しに躍起となりました。苦労の末多摩稲門会会報「杜の響き」に食通ぶりを自己紹介していた尾崎隆教さんがようやく前向きに。ところが「細事のこなせる世話人も」という条件付きのため、いねの会で差し入れを欠かさぬ気配りの持ち主辻野多都子さんを口説き落として強力な布陣が奇跡的に完成しました。
人気サークルのグルメの会は先着順のため、落選する人が少なくないことが世話人の悩みのひとつでした。そこで私は、新世話人主催2回目の参加を辞退しました。その会の席上料理自慢の山中康廣さん宅でグルメの会を開く話が持ち上がったそうで、私も「よく話し合えば開催できるのでは」と賛同しました。
大盛会と思われた山中さん宅の会でしたが、思わぬ落とし穴がありました。複数人の参加者が板の間で飲食していたことがクレームで判明しました。
ジャズ好きの山中さんは老若男女の同好者数十人を集めて自宅演奏会を主催、 自慢の手料理をふるまっていたのです。後期高齢者がほとんどのわがグルメの会とは人数が大きく違い、板の間飲食は想定外でした。
そんなこんなで新世話人はふたりそろって辞任。 グルメの会はまたまた絶望の淵に立たされました。 ひと月近く熟考を重ねた挙句、間質性肺炎をこの春発症した私が可能と思われる延命策、『グルメの会』の発足を提言しました。 私が助言者たる「つなぎ役」となり、世話人は毎回交代制で負担を減らし開催にこぎつけるという綱渡り案です。
世話人の最大の負担は、10―15人がまとまって入れるお店探し。未経験者にいきなり託すには無理がありますので、まずは好評だった「山中グルメの会」 の定員を3分の1減らして板の間飲食をなくし、会費も酒込みで2千円アップの7千円に上げて山中さんの減収採算割れを防ぎました。黒毛和牛のメニューで高級感も加えたのです。
山中さんは85歳。料理を分担する奥様も腰痛を抱えながら引き受けてくれたわけですから、さらなる負担軽減は必須でした。
つなぎ役が9月初めに開催日だけ27日と発表し、申し込み受付期間も2週間短縮し、一部の事前予約も廃止させていただきました。
結果、予約者はたった3人。私も滅多にしなかった電話再勧誘を山中さんご夫妻が快く引き受けてくれたものの、「用件を告げぬ先約アリ」が多数で予約者は増えませんでした。
次回世話人を内諾してくれていた井上一良さんとは「開催不可能」で一致しました。私の血糖値は直近の検査で9・6に上昇、もはや限界と悟りました。
元グルメの会世話人 浅井隆夫