2006.10(第 80回) 相模大山
10月は山歩きには絶好な季節である。暑からず寒からず気候のせいか今日の参加メンバーは9名になった。Aコースを退いていた櫻井さんが復帰した。久々の大人数であり金子会長は満足しているようだ。小田急永山駅下りホームに8時に集合し新百合丘から伊勢原駅へ。そこからバスで大山ケーブル駅に着いた。ここまでの復路を含めて2千円弱は割安感がある。バス停から追分駅までは石造りの階段の参道沿いに、土産店が続いている。江戸時代からの伝統がある郷土玩具の大山こま、大山豆腐も同様に有名であるが、同じような店が何軒も続いているのは何処も共通している。
ケーブルの中間にある不動駅で、下って行く電車をやり過ごした。
下社駅を降りて阿不利神社下社に上る。大山のまたの名をあふり山とも云い、常に雲や霧を生じて雨を降らすのでこの名が起こったと云われている。
阿不利神社下社の境内にある神社の左側を周り込みながら山頂の本社まで1時間半の徒歩が始まる。あふり山と云われるように辺りは霧に包まれてきた。天高い青空を期待していたが、1週間ほどの秋晴れは昨日までで終わるようである。大山は丹沢山塊の東の端にある独立峰で、多摩市からも南側の山なみの左の端に認めることができる。江戸時代には大山詣りといって数少ない娯楽の一つとなり、当時の庶民の一生に一度の旅行として、移動を嫌う幕府も容認しておりテレビの時代もの番組にもよく取り入れていた。東京から近場の行楽地にも関わらず始めてのところである。登山道は、さすが江戸時代からの行楽地であるためか幅広く良く整備されているように思った。
今週、50代の母親・娘2人と80代のマナスル登山経験者の義父がここで遭難し、3日後にヘリコプターで救出された事件があった。マナスル登山者も高齢になると判断を間違えることで、本人は人生の最大のショックを感じたことであろう。我々のメンバーも私は若い方であるが、引率には慎重な判断が必要であるようだ。
大山山頂で、にこやかに談笑する金子リーダーと、カメラを首に下げている次期リーダー候補と思われる若手の山岸さん。右の人は1年半で60回も高尾山に通ったけれどゴルフの方に向いている先輩である。最近上った山頂には我々メンバー以外の登山者の出現はなかったけれど、今回は大変な人で昼食をとる場所を選ぶのに難儀してしまった。山には人気のある山とそうでない山があることがわかった。天気が芳しくないせいか私はそれほど魅力を感じることができなかった。何時もの山頂の全員の集合写真は、順番を待って撮らなければならなかった。
山頂で食事を済ませ1時間ほど下ったところにある見晴らし台の休憩所でススキが見どころである。テーブルとベンチは一列に10セットほど並んでいたが、たまたまこのテーブルが開いていた。両肘を後に預けているのは子幡さん、酒はあまり飲めないがスポーツマンで山道を駆け上っていく人である。向かっている左端に立ってデジカメを持っている人は橋本さんで、胃を手術で無くし流動食と称して酒を飲む人。今日は息子さんの靴と間違えて、痛いといいながら歩いていた。右端の背中の女性は何時も元気な川俣さん。その向こうの影にリーダーの金子さん。その左の赤いベレー帽子の櫻井さん。その向こうの影に鈴木さん。真ん中に立っているのがまだ現役の山岸さんだが、たまたまか左右の写真の両手をベルトに持っていくポーズは同じである。最後に中央前面に疲れた顔の川面さんで、僕を入れて全員9名が揃った日向薬師に向かう下りコースはまだまだ続いている。鹿にかじられた太い樹木があちこちに見られる。腰ほどのカヤの苗木を保護するために金属の籠で覆っている箇所。鹿の被害は結構大きいようである。山道から車道に出て再び山道に入りさらに下る。再び車道に出て日向薬師の停留所まで田舎道を歩く。キャンプ場や釣り場を過ぎて終点に全員無事に着いた。バスは直ぐに出発した。 長張 記