小石川・本郷の史跡散策
「新・歴史に遊ぶ会」のメンバー10人が11月9日、文京区の小石川・本郷を散策した。これは6月末に按田先輩の案内で実行することになっていたが、按田さんが7月に急逝されたために実施が見送られていたもの。その後、按田さんの案内資料が夫人によって見つけられた。「樋口一葉の旧宅を中心に文京区東南を歩く」というタイトルで、それに従った歩きになった。
当日は晩秋であったが、暖かい晴れの日になった。午前10時30分に大江戸線春日駅改札口に集まり、歩いて小石川の伝通院(でんづういん)へ。徳川家康の母、於大の方の菩提寺で、2代将軍秀忠の長女千姫、3代家光の御台所の孝子など徳川家ゆかりの女性の墓を見た。
伝通院の山門前の善光寺坂を下ると、小説「五重塔」で知られる幸田露伴の住まい「蝸牛庵」跡、現在も幸田家ゆかりの方が住んでいる。その先は「沢蔵司(たくそうす)稲荷、別名は慈眼院」。沢蔵司という学僧の正体は、千代田城の稲荷大明神だが、近くのそば屋で天ぷらそばを食べたという伝説が残っている。そば屋は伝通院前の「萬盛稲荷」とされ、店の人が今も「沢蔵司稲荷」に供える そばをとどけている。偶々その場面に出合ったので、昼食は「萬盛稲荷」でとった。
小石川通りの「こんにゃく閻魔」に寄った後、白山通りを渡り、本郷の「樋口一葉終焉の地」に行った。ここが丸山福山町で、一葉が明治27(1894)年5月から暮らした所だ。「たけくらべ」「十三夜」「ゆく雲」「大つごもり」「にごりえ」「裏紫」といった名作が亡くなるまでここで書かれた。一葉は24歳で亡くなったが、ここでの執筆期間は「奇跡の14ヶ月」と言われる。
丸山福山町から旧菊坂町(現在は本郷)は近い。菊坂下から緩やかな坂を上がると、一葉が通った質屋の建物が残っている。その先に一葉一家は暮らしていた。一葉が使った井戸は今も残っている。
炭団(たどん)坂の上にあった坪内逍遙の旧居・常磐会館跡を見た後、「本郷菊冨士ホテル跡」に行った。大正から昭和初期にかけての高等下宿屋で、多くの文人たちが一時はここで暮らした。石碑があり、宇野浩二、尾崎士郎、坂口安吾ら止宿者の名が記されている。
菊冨士ホテル跡の所在地は本郷5丁目だが、その北側の6丁目には自然主義作家だった徳田秋声の旧宅がある。東京都の指定史跡になっている。門脇の塀の前に都教育委員会名の説明板が立っており、『徳田秋声は、「仮想人物」で第1回菊池寛賞を受賞しています』の文言。それを読んで、参加メンバーの間から“そうだったのか”という声が聞こえた。
▲徳田秋声旧宅前で参加メンバーの記念撮影
それから本郷通りに出て「かねやす」の前に立つと、午後3時だった。「本郷も かねやすまでは江戸の内」で知られる店である。
一行10人のうち8人は大江戸線本郷3丁目から京王線聖蹟桜ヶ丘駅まで戻り、徒歩数分の京王クラブで懇親した。それぞれに発見があった散策で、愉快な「お疲れさん会」になった。按田さんに感謝するとともに供養にもなったと思う。 (文責・川面)