「一日五つの よいこと」
わたしの手帳の空白部分に、その日の出来事で「三つのよいこと」を書いておくことにしたが、なかなか一日に三つを挙げることはできない。ところが、四つも五つも「よいこと」を挙げられる日がある。その日、多摩稲門会の文化フォーラムと賀詞交歓会が行われた1月26日が そうだった。
川面忠男 記(2013・1・28)
【よいこと その1】
文化フォーラムの会場は多摩市関戸にある「京王クラブ」、京王電鉄グループの福利厚生施設だが、電鉄OBが稲門会の会員なので必要があれば利用できる。わたしは窓側の一番後ろの席で講演開始を待っていたところ、入り口に思いがけない女性が現われた。すぐに席を立ち、女性に歩み寄って「川俣(あけみ)さん、よくお出でになられましたね」と声をかけた。「ごぶさた しておりました」と笑顔で応えられた。
一時は もうお会いできないのではないかという情報に接したほどの重病に罹った。薬餌効果があり、お元気になられた。お目にかかるのは一昨年の秋以来である。昨年秋、稲門会の何人かの人から川俣さんが かなり回復され、お手紙をいただいたと聞き、もういいだろうと思い、見舞いの手紙を出した。折り返し便箋7枚の便りがあり、最後に「よろめくも平癒の証瓜の花」と「蜩や礼状書きのきのうけふ」と俳句が記されていた。
賀詞交歓会には出られないというので、講演が終った後に立ち話をした。わたしが毎日書いているものは川俣さんの負担になると思い、原則としてメール送信を やめていたが、今後は内容によっては送信すると伝え、川俣さんも「そうしてください」と応えた。さらに「近くを歩くようなことであれば、参加したいと思います」とも言われた。「歴史に遊ぶ会」で多摩近辺の史跡巡りを企画する際は ご案内することにした。「参加、不参加のご返事は無用です」とも言い添えた。朝になって体調がよく、歩いてみたいという気分に なられたら参加されれば よいのである。
「お会いできて うれしかったですよ」。「わたくしも皆さんに お会いできで うれしく思っています」。こういう会話ができる日を待っていたのである。
【よいこと その2】
フォーラムの講師はTBSのアナウンサー出身でジャーナリスト、評論家、大学教授などと多彩な活動をしている見城美枝子さんだったが、本来であれば京王線聖蹟桜ヶ丘駅近くの京王クラブまで足を運んで もらえる人ではなかった。ざっくばらんな話をすれば、稲門会のフォーラム予算では見城さんを呼べる講師料は払えない。それにもかかわらず見城講師が実現したのは、フジテレビ出身で多摩稲門会の浪久さんが声がけしたからである。2人は早稲田大学の放送研究会で先輩後輩の間柄である。浪久さんの力もさりながら見城さんのお人柄もあるだろう。
こういうことを言うのも、わたしは現役の頃に数々の方に講師を依頼して様々な理由で断られた経験を持っているからに他ならない。一例を挙げれば、横浜市に頼まれて堺屋太一さんに お願いしたことがあるが、市が払える講師料の予算では応じられないと堺屋さんの事務所の女性に事務的に断られた。平成の初め頃のことだが、堺屋さんの講演料は東京都内で90万円、都外で100万円という相場だったので、端から相手にして もらえなかった。
わたしは文化フォーラム担当者では なくなったので、見城さんの講演料が いくらであるか正確には知らないが、おそらく「お車代」程度であろう。しかも見城さんはフォーラム後の賀詞交歓会の途中まで おつきあいしてくれた。当日は見城さんの誕生日と聴き、参加者一同で「Happy birthday to you ♪ 」と歌って送った。
講演のテーマは「女性の社会進出」であるが、質問は何でも いいということなので、わたしは「TBSで影響を受けた人、すばらしいと思った人などについて実名を挙げて お話いただきたい」と訊ねた。これに対して見城さんは失敗談と先輩の恩を語った。
新人アナウンサーの頃、「JOQR(文化放送)」と誤まって言い、社内で問題となり、アナウンサー失格と なりかねなかった。NHKからTBSに移籍した当時のアナウンサー室長との間で「アナウンサーを続けたいか」「ぜひアナウンサーを続けたい」という やりとりがあり、室長が かばって その後もアナウンサーを続けられた。パーティーで定年退職した元室長に会い、当時の礼を言うと反対に「アナウンサーを続けてくれて ありがとう」と言われた。元室長が亡くなる前に病室に見舞いに行くと、かすかな声で「今は死について考えている」と言った。そんな話をして見城さんは、わたしの目をじいっーと見た。「これで よろしいですか」と目が語っていた。
講演は「人生は十年(とうねん)とって四捨五入 時には七掛け命がけ」という言葉で まとめた。ご自身を励ますとともに当日の聴講者にも送る言葉である。わたしは当年、72歳だが、10年取ると62歳、四捨五入すれば60歳となる。まだまだ この世のことについて知りたいが、それができる時間は かなりある、と思うことにしよう。
【よいこと その3】
見城さんの講演開始前に稲門会の副会長の一人、金子宏二さんから早稲田大学校友会の袋を手渡された。「差し上げます」と言われて袋の中を見ると、一冊の本が入っていた。『ザ・会津』」と赤地に黒の文字、さらに『戊辰戦争の旅』と白抜き。読売新聞社が1986年に発行した特集本である。写真が ふんだんに載っており、半分は写真集といった体裁である。得がたいものを もらったと思った。
ぺらぺらと めくる。「刀痕無残 滝沢本陣の戦い」という説明があるページには文字通り柱に残る刀疵の写真が載っている。そうした会津藩の運命と直接には関係ないが、わたしには興味深い写真がある。「西郷頼母(会津藩の家老)の甥たち。左は西郷家の養子となった西郷四郎」という説明が付いている。西郷四郎は近代柔道の創始者、嘉納治五郎の門下生で、講道館の四天王と言われ、小説「姿三四郎」のモデルである。講道館柔道に山嵐という技があるが、これは西郷四郎だけが使えた技で、小説でも姿三四郎の得意技になっている。
西郷四郎の右隣に写っているのが井深彦三郎。「満州における大山(巖)元帥の片腕ともいわれ、志高の浪士として名高い。のち、国会議員となる」という説明である。
【 よいこと その4】
賀詞交歓会では各人が ひとことスピーチした。NHKの大河ドラマ『八重の桜』が放送スタートとなったことから会津高校出身の星野英仁さんが、山本八重と夫の新島襄のことに触れながら、もう1人の会津の女性である山川捨松について語った。捨松は米国の女子大を卒業したが、後に会津の仇敵である薩摩の大山巖に見初められて妻となった。星野さんのように会津について語られる人が稲門会にいることが うれしかった。
【よいこと その5】
賀詞交歓会で久しぶりに福田夫妻に会った。以前は よく街歩きを一緒にし、その後で京王クラブで懇親したものだが、夫妻が孫の世話を することになって以来、イベントめいた集まりにしか参加しなくなった。それでも夫妻の元気な顔を見られるのは うれしいものだ。
夫人のかほるさんは、過日96歳で亡くなった甲野善勇さんの娘さんが友人であると人づてに聞いていた。わたしが知らない甲野さんの ことについて何か聞いていないか訊ねたかったのだが、先輩の女性を送って行ったとのことで会場ではお話できなかった。またの機会にしよう。
以上