「会津史談会」要約
多摩稲門会のサークル「歴史に遊ぶ会」は、NHK大河ドラマ「八重の桜」が話題になっていることから「会津保科(松平)藩の成立について」と題して会津出身の会員である星野英仁さんに語ってもらいました。この「史談会」は3月6日午後4時から多摩市関戸の焼き鳥店「鳥はな」に12人が集まって行われ、参加者は1時間半にわたって星野さんの話に耳を傾けました。その後、酒と肴で懇談し愉しく充実したひと時を過ごしました。以下は「戦国末から保科正之が徳川宗家の藩屏を藩是とするまで」という内容の要約です。
〔保科正之が会津に入る以前〕
守護大名・蘆名氏の会津支配が400年続き、天正15(1587)年、佐竹家から養子に入った義弘が家督を継いだが、伊達政宗との摺上原の戦い(1589)年で負けた。政宗が会津黒川城に入ったものの、豊臣秀吉が天下統一に動き、翌年小田原を征伐、黒川城に入り奥州仕置きを行う。政宗は米沢城に移され、その後に伊勢松阪12万石の蒲生氏郷が42万石で入り、城下を整備し若松と改める。
蒲生秀行が氏郷の後を継ぐ。秀行は慶長3(1598)年、宇都宮18万石に移され、その後に上杉景勝が120万石で入った。景勝は家康に対抗し、蒲生秀行は江戸城を守る留守番といった状況になるも関ヶ原の戦で東軍が勝ち、景勝は家康に謝罪、家の取り潰しは免れたものの、会津から米沢30万石に減らされる。秀行が60万石で会津に再入封となった。
秀行が死去した後は忠郷が後を継ぐ。キリスト教を禁圧、教徒やバテレンを捕まえた。忠郷が死去した後、伊予の松山20万石から加藤嘉明が40万石で入封。嘉明は若松城を修復、後を継いだ明成も出丸を拡張、防御力の高い城にした。これが戊辰の戦で役に立った。
明成は家老の堀主水を煙たがり、堀は出奔し、幕府に訴えるも明成に渡され、なぶり殺しにされる。明成の行動も問題となり、領地を召し上げられる。寛永20(1643)年、保科正之が出羽山形20万石から23万石で会津に入封した。さらに天領の南山御蔵入領5万石を預かり実質28万石となった。
〔正之入封後の藩内の動向〕
正之は領内を巡見し、漆、蝋などを藩の専売にした。瀬戸から職人を呼んで来て会津でも焼き物を作らせた。藩士には武具・馬具を所持させ、鉄砲足軽を召抱えた。徳行のある者や孝行者を表彰したりもした。蒲生時代の残酷な刑罰を嫌悪しやめさせた。
家老田中正玄に禄1000石加え3000石としたが、23万石にしては多いと言えない。慶安5(1652)年には家中の掟を定めてもいる。
正之は中将になった。長女援姫を上杉綱勝に、4女の松姫を前田綱紀に嫁がせた。寛文1(1611)年には神道を学ぶ。勉強好きで、朱子学も山崎闇斎を江戸から招き学ぶ。上杉綱勝は嗣子がないまま死亡、正之が米沢藩政に参与した。
藩の儒者・横田俊益が稽古堂をつくった。藩校・日新館の前身となるものだが、侍だけでなく町人も入れた。専売制の強化で経済力を高める。後継者の正経が前田利常の娘と婚礼。正之は目を悪くして隠居を幕府に願うが、許されない。
山鹿素行が正之の忌諱に触れ、赤穂に配流となる。素行の陽明学が正之の怒りをかったもので、素行は赤穂で教える。若いころの大石内蔵助が学んだであろう。
寛文8(1668)年、友松勘十郎が、正之の健康から万一を考え、家訓制定を進言、よかろうとなって15ヵ条を制定。第一条で徳川の藩屏となるとした。寛文11(1671)年に土津の神号を贈られる。翌寛文12年に江戸藩邸で死去、62歳だった。
〔正之の生い立ち〕
2代将軍秀忠の庶子として慶長16(1611)年に生まれ、幸松と名付けられた。母は秀忠の乳母付きのお志津。正室のお江与の方に抹殺される怖れがあることから武田信玄の二女で家康が城内に住まわせていた見性院に預けた。それでも危険と妹の八王子の信松院が面倒をみるが、結局は武田の家臣だった信州高遠2万5千石の保科正光の養子になる。老中は養育料として5千石増やし3万石とした。
3代将軍の家光は鷹狩りに出て寄った寺の僧から聞かされるまで正之の存在を知らなかった。その僧は相手が家光と知らず、家光の家臣と思って話をしたという。家光は、正之が血を分けた弟と知り1633年に桜田門内に屋敷を与えた。正之の謙虚な人柄をよしとし、山形20万石の藩主に引き立てた。
〔4代将軍家綱の後見役〕
1651年家光が亡くなり、家綱が将軍になった後、叔父として後見となる。会津には23年間も帰らず幕政に当たった。
明暦の大火(1657)年は3日3晩にわたり江戸の街が燃え、10万人以上が死んだ。その際、幕府の米倉を開放した。幕府の財政を支える米倉なので反対する役人が多かったが、それを退ける決断ができる人物であった。粥の炊き出しを行ったのは、大火の後は急に気温が下がり、雪になって凍死する人も出たため、被災者の体を温める目的があった。
町方、旗本御家人に家を建てる金を貸した。勘定方は、幕府の金蔵が空っぽになるからと大名から借りることを提案したが、正之は幕府の権威が失墜すると同意しなかった。亡くなった人を放置せず、塚を立てた。それが回向院となった。
江戸城の天守閣は焼けたが、高い所から見晴らすだけの天守は不要と再建の必要を認めなかった。
正之後見の家綱には3大美事と呼ばれるものがある。ひとつは末期養子を認め大名家の断絶を減らし、浪人が増えることを防いだ。また殉職を禁止した。大名の家族を江戸に置かせて人質とする制度も改めた。これは武断政治の方向を転換させたものだ。
〔総括〕
藩の体制は山形の前藩主・鳥居家の家臣だったものが100石以上の家臣では65%、千石以上でも46%と藩士をバランスよく抱えた。人使いがうまかった。採用する際は自分の目で見て適材適所に配置した。
家臣に藩政を任せて23年間、江戸で家綱を親身になって後見できた。それは自分しかいないという強い気持ちがあったからであろう。
会津藩の家訓のなかには「婦女子の言うことは聞くな」というのがあるが、これは正之の体験にもとづく。側室お万の方は自分の娘の援姫が米沢30万石に嫁いだが、別の側室の子の松姫が石高の大きい加賀100万石に嫁ぐことが不満だった。江戸藩邸で祝いの席を用意し、松姫の膳に毒を盛った。松姫付きの老女が気を利かして姉より先は失礼とご膳を取り替えたところ、援姫がそれを食べて、母親に殺されるというとんでもないことになった。正之は奥向きの女中を断罪したが、お万の形は後継者の生母であり、遠ざけるだけに止めた。
家老たちについては正之の家老・田中正玄は正之の信頼が厚い名家老であった。友松勘十郎は家訓制定を進言。残りの家老は南山御蔵入領を抑えるために功があった人たちだ。南山は天領で気風が違い、会津藩に対しても礼を欠き横柄な態度であった。関藤右衛門は、10何人も切り捨て威令が行く届くようにした。飯田平左衛門は穏かな人物であった。
星野さんの話を聞いた後、質問や感想が出た。保科正之は、御三家に次ぐ親藩筆頭であるが、将軍は御三家から出すことになっている。水戸光圀の副将軍はお話に過ぎないが、正之は実質的には副将軍の役を果たしたと言えよう。御三家ではないが、将軍の実子であり、家光に頼まれたからできたことであるが、その器でもあった。