日露戦争海戦史の「酒談会」
2014年03月02日
「歴史に遊ぶ会」は2月26日、「日露戦争海戦史の虚実」をテーマに史談会を行った。これは「いねの会」の「小さな旅」で横須賀の記念艦「三笠」を見学したことなどから日本海海戦についておさらいをしようということになったもの。会場の京王線聖蹟桜ヶ丘駅前の「鳥はな」で酒を飲みつつ海戦時の第二戦隊参謀長であった藤井較一大佐(後に大将)の活躍などについて話し合った。
当時の海相の山本権兵衛、連合艦隊司令長官の東郷平八郎、艦隊司令部参謀の秋山真之らについては司馬遼太郎の「坂の上の雲」などで国民に広く知られているようだが、藤井較一のことはあまり知られていないという認識で一致した。
ロシアのバルチック艦隊が対馬海峡に来るか、それとも津軽海峡方面に行くか、について当初秋山らは対馬に来ると判断した。しかし、想定日を過ぎてもロシア艦隊が現れないため秋山たちは連合艦隊の津軽移動説に傾き、その旨の密封命令を各艦に配布した。しかし、藤井が旗艦「三笠」の司令部に乗り込み、司令部は間違っていると主張、その通りロシア艦隊は対馬海峡に現れ、密封命令は破棄され、日本海海戦は対馬沖海戦となった。
このことは一般向けに公刊された「明治三十七八年海戦史」には載っていない。つまり秘史とされてきたが、「極秘明治三十七八年海戦史」には明記されている。後者は一部だけ宮中に残り、昭和の終わり頃に昭和天皇が防衛省に寄贈したことから隠されていた真実が明らかになった。
このことは防衛大学校の教授だった野村實の「日本海海戦の真実」(講談社現代新書)や歴史探偵を自称する半藤一利さんがこの1月末に著した「日露戦争史」第3巻(平凡社)に詳しく述べられている。
藤井較一は、旅順艦隊の司令長官だったロシアのマカロフが乗った戦艦を触雷させ戦死させたり、いわゆる丁字戦法から逃れてウラジオストックに逃げ込もうというロシア艦隊の動きを察知して阻止する艦隊運動を行ったり、名将ぶりを発揮した。しかし、東郷を神格化する時代の流れの中で藤井は実像より小さくされた、というのが「酒談会」での感想だった。