第52回文化フォーラム「星野英仁氏講演会」摘録
2014年03月30日
3月22日(土)14時~18時迄、聖蹟桜ヶ丘駅近くの「京王クラブ」にて52回目の文化フォーラムが開催され会員・一般の方を含め歴史ファンが多数参加された。
・「文化フォーラム」
長張紘一幹事長の開会挨拶、依田敬一会長挨拶のあと、湯浅芳衞副会長の司会で本日の講師多摩稲門会幹事星野英仁氏の紹介があった。
星野氏は元日本不動産銀行マン、主に不動産鑑定部門で要職を経験され、又永年多摩市の固定資産評価審議員も務められ地元にも多大な貢献をされた方です。
昨年、多摩稲門会文化サークル「歴史に遊ぶ会」において、講師として3回にわたり会津藩の歴史を詳細に語られ、その評判が文化サークル会員から多くの稲門会会員に伝わり本日の講演会開催となりました。
『八重の桜 ふるさと歴史探訪』という演題で、会津若松出身の星野さんが郷土の誇りと熱い思いを背景に「会津藩」の成り立ち、藩祖保科正之の人となり、藩政等を丹念な語り口で語られた。又プロジェクターには、修復された赤瓦白壁の「鶴ヶ城」が映し出され、聴衆は一気に江戸時代の歴史話に引き込まれた。
(要旨)
藩祖保科正之の出自(2代将軍徳川秀忠の庶子として誕生)から講演開始。
正之は恵まれないまま不遇な時を過ごしたが、やがて経緯があり、家光に見い出される。
1617年、高遠藩主の養子となる(18歳)。
1636年、出羽山形に転封、誠実・聡明な人柄から3代将軍家光の側近として重用される(26歳)。
1643年、会津に転封、3代将軍家光からの信頼を増し4代将軍家綱の後見人としての遺命を受ける(33歳)。以後江戸藩邸において幕政を補佐、会津藩政を執り行う。
その間の功績、玉川上水の掘削、明暦大火の際、窮民対策として貯蓄米の放出等がある。
幕府の武断政治を文治政治に転換させた功労者であった。
藩政の功績としては「家訓15か条」・「社倉の創設」が有名。
家老田中玄宰の功績として、藩校日新館の開設、会津武士道の確立、殖産振興等が挙げられる。
以後9代松平容保に至るまで御三家に次ぐ親藩として幕政の中枢にいた。
幕末期の徳川約260余藩には勤王派・公武合体派・佐幕派の葛藤を巡る夫々の秘話があり、藩政も混乱を極めた。しかし会津藩には「義」を貫いた結果、戊辰戦争において賊軍となり、藩主はじめ家臣団・領民が大変辛酸をなめた歴史がある。
会津人は維新以降、不屈の精神で東大総長山川健次郎、山本覚馬、新島八重、秋月悌次郎、野口英世など素晴らしいオピニオンリーダーを多数世に送り出した。
筆者には3・11以来、福島第一原発事故で「故郷喪失」という事態にある福島県民の苦難が重なる。
もし自分の家族が災難にあったらどうするか?
今、為政者(行政執行者の官僚を含め)には、三現主義(現場・現物・現状)に基づき迅速に対応する実行力が求められているのではないでしょうか。原発事故の収束・「故郷復興」の為、もっと民に寄り添い着実に前進する有効な施策が必要ではとも思います。
参加各位は、星野氏の誠実感あふれる朴訥とした語り口に引き込まれ、敢えて苦難な道を歩んだ会津藩主、藩士と領民に思いを馳せ講演を拝聴されていた。
最後に質疑応答があり、星野さんは、質問者に対し当時の「義」を重んじた価値観を丁寧に説明され、聴衆も納得する事しきりであった。
・参加者(敬称略)
青木康成、浅井隆夫、新井正子、石井卓司、石川良一、内田通夫、尾ノ井光昭、
加来健一郎、金谷勇作、川面忠雄、菊澤光江、小林 勲、白井昭雄、鈴木忠男、田中亮介、
田辺繁友、辻野多都子、寺沢 史、長張紘一、西村幸一、橋本 孜、半田正久、平松和己、
広田 進、藤井良夫、星野英仁、前田光治、又木淳一、湯浅芳衞、吉川啓次郎、吉田 浩、
依田敬一、若杉公朋、林 譲、
・校友3名・一般4名
・計41名
・「懇親会」
その後、会場を移動、懇親会の場では、平松和巳副会長による司会、尾ノ井会計幹事の開会挨拶、前田光治氏の乾杯で開宴、星野氏を囲み、歴史談義に興じた。
司会者の指名により参加各位が近況報告、会津訪問時の印象、歴史観を披歴され会場は大いに盛り上がった。最後に恒例の平松副会長の音頭で全員肩を組み校歌斉唱し閉宴。