「歴史に遊ぶ会」佐渡の寺社・史蹟に見る日本史断章
2014年11月02日
「佐渡の寺社・史蹟に見る日本史断章」というテーマの史談会が10月24日、聖蹟桜ヶ丘駅前の「鳥花」で行われ、6人が参加した。話し手は私、川面が務めた。簡略して説明すれば、今のような内容になる。
1、承久の変と順徳院配流跡
後鳥羽上皇は承久3年(1221)幕府を倒そうと挙兵したが、敗北して隠岐、第3皇子の順徳上皇は佐渡に配流された。
(1)黒木御所 順徳上皇(1197~1242)の佐渡における配所で、京都に帰ることがないまま在島21年に及んだ。
(2)真野御陵 順徳上皇は崩御後、真野で火葬にふされた。その火葬跡。
(3)本光寺 順徳上皇の持仏であったと言われる聖観音立像がある。
(4)世尊寺 順徳上皇に供奉して渡島した北面の武士、遠藤四郎盛国が上皇薨去後も島に留まり、一宇の堂を建てたことに由来。
(5)一宮神社 順徳上皇第一皇女慶子女王を祀る。墓は別の場所にある。
(6)二宮神社 第二皇女忠子女王を祀る。隣接して墓所がある。
(7)千歳宮墓 皇子の墓所。
2、鎌倉幕府の日蓮弾圧と佐渡配流
日蓮宗の開祖・日蓮(1222~1282)は文永8年(1271)幕府に捕らえられ、一度は斬首と決められたが、佐渡に流された。
(1)根本寺 日蓮は三昧堂という荒れた小堂に住まわされた。現在の根本寺。今では日蓮宗有数の寺になっている。
(2)妙宣寺 日得は遠藤左衛門為盛で、順徳上皇に供奉して佐渡に渡ったが、上皇が崩御した後は日蓮に帰依した。阿仏房は真野に妙宣寺を開基した。
(3)實相寺 日蓮が妙照寺になっている阿弥陀堂に幽居していたとき、毎早暁ここへきて東方の故郷安房の両親を追慕し、朝日を拝んでいたという。
(4)妙照寺 文久9(1272)年から2年間居住、その跡地に建てられたと言われる。日蓮赦免1年後のことであった。
3、京極為兼の配流
為兼は大覚寺統と持明院統の両統迭立の争いに巻き込まれ、1298(永仁6)年佐渡に流された。鎌倉幕府と通じていた西園寺實兼との確執が背景。
(1)八幡宮 為兼の配所跡。
(2)禅長寺 配流となった京極為兼がこの寺の毘沙門堂に滞在した。
4、正中の変・元弘の変と日野資朝
正中元年(1324)、日野資朝(1290~1332)は後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画に加担、情報が幕府にもれて捕えられると資朝は責を一身に負い、正中2年(1325)に鎌倉幕府によって佐渡に流された。7年後の元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再び討幕を企てたが、失敗して隠岐に流された。元弘の変の後、鎌倉幕府は日野資朝を斬罪した。
日野資朝の墓 資朝が荼毘にふされた場所が妙宣寺の一角にあり墓が建っている。しかし、遺骨は従者が高野山に葬ったとも伝えられている。
5、世阿弥の佐渡配流
世阿弥は永享6年(1434)、足利義教により佐渡に流された。72歳になっていた。
(1)万福寺 佐渡の最初の配所。
(2)正法寺 その後、正法寺に移された。正法寺には世阿弥が都から持って来たと伝えられる能面がある。
(3)長谷寺(ちょうこくじ) 世阿弥が途中で立ち寄った。
6、大久保長安
大久保長安(1545~1613)は、東海・中山道の伝馬制、石見銀山(1601)佐渡金銀山(1603)、伊豆銀山(1606)の奉行。死亡すると、公金隠匿の罪を着せられ、遺子7人のうち男子5人は死罪となった。事件の真相は不明だが、長安の巨額の資産と幕府内での権力闘争が原因と言われている。
(1)大安寺 長安が佐渡で建てた個人の寺。長安が生前に建てた逆修塔がある。
(2)大願寺 焼失後、大久保長安が佐渡奉行として援助、再建された。