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第31回「歴史に遊ぶ会」

2016年02月14日

サークル「歴史に遊ぶ会」の第31回目は史談会を行った。テーマは「万葉集と古代の国際関係」で世話役の川面が講師。2月12日午後2時、多摩市永山の公民館のサークル室に6人が集まった。話の要旨は以下の通り。

 

「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(万葉集巻一 8)という額田王の歌は、白村江の戦(663年)に出かける船団の戦意を高揚させようとして詠んだ歌である。

 

しかし、奈良から近江へ遷都する際に詠んだ「味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の隠さふべしや」という額田王の長歌は奈良を離れたくない思いがこもっているように感じられる。日本軍は百済を救援し唐と新羅の連合軍と戦って大敗した。唐が攻めてきた場合、奈良よりも近江の方が守りやすいとか人心を一新するのが遷都の目的とされているが、実は唐に命令されたのではないかという説がある。そうだとすれば、額田王の長歌もわかりやすい。

 

日本は国家的危機に陥り防衛の城として対馬に金田城、讃岐に屋嶋城、大和に高安城を築いたが、これらも唐が日本を支配するための拠点として築かせたのではないか、という見方もある。

 

防人の制度ができ、東国の若者が難波まで歩き、さらに船で筑紫に向かった。「赤駒を山野に放しとりかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」(巻二十 4417)は豊島郡に住む女性が防人となる夫を心配して詠んだ。こうした東歌には庶民の率直な心情がこもっている。

 

「筑波嶺のさ百合の花の 夜床にも愛しけ妹ぞ。昼もかなしげ」(巻二十 4369)は防人となった夫が残してきた妻をいとしいと詠った歌。その同じ若者が「霰降り鹿島の神を祈りつつ すめら御軍にわれは来にしを」(巻二十 4370)と詠い、天皇の軍隊の一人となった覚悟を示した。先の戦争で命を捧げた若者たちにも通じるものがある。

 

百済から日本に逃れてきた人たちが近江の蒲生などに住まわされた。唐は百済に続いて高句麗も滅ぼしたが、高句麗からも逃れてきた人たちがいた。その一部が埼玉県日高市に定着し、王族の子孫が高麗神社の宮司を続けている。

 

多摩稲門会のサークル「山歩きの会」が行った2008年秋のBコースで高麗神社を訪れたことも思い出したが、その時のリーダーは故人になってしまった。稲門会のサークル活動も一つひとつが小さな歴史になっていく。

 

史談会は2時間で終わり、その後は5人が最寄りの蕎麦店で懇親した。

(川面記)

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