東京の古刹を巡る 護国寺と神楽坂 歴史に遊ぶ会・悠々歩く会
2011年12月03日
多摩稲門会の二つのサークルが合同で秋の一日を楽しんだ。「第12回歴史に遊ぶ会」と「悠々歩く会」で、「都内古刹を巡るプラン」を実行した。
この企画は、以前に行われた江東区の下町界隈を遊歩し楽しんだ企画に参加した藤井会員(本リポート作成)が、東京には江戸時代に建立された多くの神社仏閣や興味深い仏像・絵画が存在することに着目し、再びこれらを巡って歴史に触れてみようと企画した第一弾である。
11月14日(月)、午前9時頃、京王線永山駅に集合、都営新宿線市ヶ谷駅で有楽町線に乗り換え、午前10時半過ぎに護国寺駅で降りた。階段を上れば、護国寺である。仁王門をくぐり、石段を上がると、左に月光院、正面に本堂、薄緑色の屋根瓦が光に映えている。内部に入り、正面に座ると、寺の中高年男性が語り出した。その内容をかいつまんで紹介しよう。
護国寺は、徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院の発願により、綱吉が天和元年(1681)に建立した。以来、330年、建物は当時のままで重要文化財。以後関東大震災や第二次世界大戦・東京大空襲からも奇跡的に免れ、3月11日の東日本大震災にも被害は出なかった真に強運の寺院である。ケヤキ材の太い柱が52本も使われ、本堂をしっかりと支えている。
山号は神齢山、院号は悉地院、本尊は、桂昌院念持仏の天然琥珀の如意輪観世音菩薩像である。ふだんは本殿正面の鏡にお顔を隠している。その如意輪観音は、実は前立ち観音である。前立ちは、秘仏として厨子などに納められている本尊に代わって、その前に安置される仏像のこと。寺の男性に秘仏を見たことがあるかどうか問うたところ、「いまだにない」との返事であった。
桂昌院は、京都の八百屋の娘だったが、3代将軍家光の乳母である春日局に見出され、家光の側室となり、阿玉(おたま)の方といわれた。俗に「玉の輿」という言葉があるが、阿玉の方の破格の出世から生れたものと言われ、前述の如く当寺院の三度に亘る大災害から免れた強運と相い通じるものがある。
阿玉の方は、自分の生んだ子どもが将軍になった身の幸運に感謝して仏教に帰依し、護国寺の大スポンサーになったわけである。護国寺の正面の通りの行き着いた先に江戸城があり、桂昌院はむろん綱吉もしばしば護国寺を参詣に訪れた。
寺の男性の案内で本堂の裏を見た。痩せこけ、あばら骨が浮き出た釈迦の立像がある。心身を消耗する苦行に耐えたが、悟ることができず、生きるか死ぬかの状態で人々の前に現れた際の釈迦像という。表情も見なれた仏陀のものではなく、疲れ切った人間のものである(“出山の釈迦像”と言われている)。
裏観音と呼ばれた観音像がある。これは秘仏の代わりに拝まれた。護国寺は、真言宗豊山派の大本山だが、総本山は奈良県桜井市にある長谷寺。長谷寺の本尊の十一面観音も秘仏だったが、その裏の観音が代理で拝まれ、同じように裏観音と呼ばれていた。
本堂裏の左の奥に役小角(えんのおづの)の坐像が安置されている。役小角は修験道の開祖で、呪術をよくしたと伝えられている。
護国寺はやはり桂昌院との縁が深い。本堂の裏には桂昌院が乗った駕籠が上から吊るされている。また33体の仏像が安置されているが、それらの全てに桂昌院の髪の毛が納められているそうだ。
護国寺には早稲田大学の創始者である大隈重信候をはじめ早稲田が輩出した政治家で日中国交回復に尽力した松村謙三らの墓がある。晩秋の晴れた空を見ながら、これら偉大な先輩の墓に詣でた。大隈さんが早稲田大学をつくらなければ、私は勿論多摩稲門会の皆さんが早稲田に学ぶこともなく、人生もまた変わったものになっていたであろう。そういう思いに駆られつつ、心から感謝するとともに安らかな永眠をお祈りした。尚、大隈公のエピソードに関し、金子幹事長から貴重で極秘の情報を解説頂いた事に真に感謝します。
神楽坂
その昔早稲田の学生が青春を謳歌した古き良き町“神楽坂”を散策すべく午後の部に移行。一本の“神楽坂通り”の左右には和・洋・中の洒落たレストランが密集し、その選択に迷うほどの神楽坂界隈で結局「翁庵」というそば店で昼食をとった。一行は12人、2階の座敷ではなく、その奥のテーブル席に座ることができた。予約はしていなかったが、たまたま空いていた。気楽に店に声をかけられるのも、常連感覚を持っていたからだ。私が常連ではないが、多摩稲門会の井上さんが店のママと古くからの馴染みで、井上さんの仲間という縁を利用させてもらったわけである。
昼食後は按田さんと藤井会員の案内で、レストラン同様に多くの神社や寺院の多い神楽坂界隈を歩いた。先ずは、神楽坂下から若宮八幡神社に向った。源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐する際、この神社に戦勝を祈願したという言い伝えがある。神楽坂通りを外れた一角で、周囲にはマンションが多い。
横町を歩き、やがて地蔵坂に出た。右側に光照寺。牛込城跡の跡地という。牛込氏が戦国時代、この地域の領主であった。先祖は北条氏に仕え、徳川家康が江戸に入植後は徳川の家臣になった。牛込城といっても、城郭があったわけではなく、領主の館を主体としたものであっただろうと推測されている。
光照寺の墓地を歩き、作家の森敦が眠っていることを知った。森は小説「月山」を書いた芥川賞作家。傍らの碑に「われ浮き雲の如く 放浪すれど こころざし 常に望洋にあり」の言が記されている。(川面会員の解説)
墓地の奥に「諸国旅人供養碑」がある。神田の旅籠「紀伊国屋利八」なる者が旅先で亡くなった者たちを供養したもの。49人まで供養したという。そんなに古い話ではなく、幕末の頃のことといわれている。
地蔵坂を下り、神楽坂通りに出ると、ちょっと神楽坂下の方向に毘沙門天善国寺がある。400年以上の歴史がある日蓮宗の寺だが、「毘沙門様」と呼ばれ、多くの願いをかなえてくれる多聞天。狛犬の代わりにトラの像が安置されているが、これは毘沙門天がトラの化身とされているからだという
神楽坂を上に歩き、大久保通りを渡った先に牛込氏ゆかりの赤城神社。建物が古色蒼然としたものでなく、明るくて透明感がある新しいもの。たまたま建築を学ぶ若者たちが視察に訪れていた。
赤城神社の境内に蛍雪天神が建っている。昔は横寺町にあった朝日天満宮だが、その後に経緯があり、また戦災により焼失していたが、平成17年に旺文社の寄進で再興された。むろん学問の神様である菅原道真を祀っている。
当神社は最近建て替えたばかりのピカピカの本殿で全ての建造物も新しくなり、本殿横には事務所や喫茶コーナーがあり、その上はマンションとなっており、昨今、寺院・神社が力を入れている多角経営化の典型的事例に思えた。
安養寺という小寺に立ち寄った後、大久保通りを歩き、筑土八幡神社の石段を上った。田村虎蔵顕彰碑がある。「田村虎蔵って何者?」と疑問に思ったところ、同行の按田先輩は知っていた。「まさかりかついだ金太郎♪」の「きんたろう」を作曲するなど数々の童謡を残している。永年、近隣に住んでいたので、筑土八幡の一角に碑が建てられたようだ。護国寺のような大寺は、神楽坂にはないが、神社仏閣の数は少なくない。それだけ神楽坂界隈には古い歴史がある。
最後に、新井さん桜井さんの健脚ぶりを尊敬しつつ、神楽坂のもう一つの顔である花柳界の面影が残る芸者新道を通り、現在30人の神楽坂芸者を抱える見番を見ながら、大江戸線・飯田橋駅に向かい帰路についた。
今回の企画は、寺院・仏閣の名前や一通りの知見を有している我々ではあるが、実際に訪れ、目にし、耳に入れることで、歴史に造詣を深めるとともにフレッシュな印象を与えられ、有意義であったと思う。
これからも新たな場所や歴史的な対象物をアレンジして新しい企画をプランし、皆で楽しめれば幸甚です。 文責・藤井