早稲田界隈散策、変る風景
JR高田馬場駅早稲田口から山手線に沿い、大久保方面に向って歩いた。緩やかに上り、そして下れば新宿副都心のビル群が視界を占める道だ。半世紀前には見慣れた道の筈だが、私の記憶にない光景が広がる。道の両側の建物がすっかり変わってしまったせいだろう。建物は各種専門学校が多い。これらも早稲田大学を核として「学の街」をつくっている要素の一つと言えよう。
日本児童教育専門学校になっている場所に作家の志賀直哉の旧居があった。そのことを記した銘板によると、昭和13年4月から15年5月まで住み、「泉鏡花の憶ひ出」などを書いた。志賀直哉全集(岩波書店)の日記を見ると、このころ志賀直哉は胆石痛にしばしば苦しめられていた。昭和14年9月7日に「泉鏡花さん逝去、夕方行く」と書いている。
「泉鏡花の憶ひ出」の書き出しはこうである。『十三四の頃「化銀杏(ばけいちょう)」を読んだ。「殺すよりも死ねばいいと絶えず思ってゐる事の方が遥かに残酷ではないか」と云ふ事があって、それが妙に頭に残り、全体としても印象が強く、後までこれを覚えてゐたが、子供のことで作者が誰れかといふ事には無関心だったから、それが泉さんのものである事は知らずにゐた。』。この後、泉鏡花との出会い、淡い交遊を述べて以下の文で終る。
『私も此夏は持病の胆石で苦み、三月寝て暮らし、友達にも心配をかけた。泉さんは「耳袋」といふ本が病気で寝てゐる時など、いい本だからと里見を介して知らして下され、早速それを病床で読んだ。その私の病気が未だ本統に直りきらぬ前に泉さんは急に亡くなられた。』。
志賀直哉は、泉鏡花の作品が好きであり、また鏡花の人柄もどことなく好もしく思っていたことが文中からうかがえる。志賀の影響で里見弴も鏡花作品の愛読者になったという。
JR沿線沿いの道は諏訪通の交差点に出て西に向い左折する。空には薄い雲が広がっていた。逆光のせいもあって、新宿のビル群が鈍く光っている。保善高校入口という交差点を南に向って渡る。戸山公園がある。公園を通り過ぎると、早稲田大学理工学部で、西に向って明治通りまで長方形のキャンパスが延びている。正確な面積は知らないが、かなり広い。
早稲田らしく理工学部は出入り自由だ。すぐに胸像が目に入る。鎌田薫現総長名で、顕彰の趣旨が述べられている。胸像は竹内明太郎、小松製作所の創立者である。理工学部は竹内の支援で礎が築かれた。理工学部では「最大の恩人」とされている。その功績を顕彰し、胸像が造られたのは平成23年6月と銘記されている。まだ一年も過ぎていない。私立大学は、こうした支援に負うところが少なくない。財ある者はそれなりに、財なき者もそれなりに、一灯を献じることが社会や卒業生に望まれる。
理工学部は一見、工場か研究所のような印象だ。女子学生が行き交う華やかさとはほど遠い。建物もメタリックな感じだ。
キャンパスから公務員西大久保住宅が見える。この日の案内役、多摩稲門会の中川先輩が住んでいたところだ。中川さんは早大法学部を卒業した後、一年ほど出版社に勤務したが、高級官僚に転身した。国家公務員上級職試験に合格し、法務省で永らく保護行政に携わった。中川さんは、公務員住宅の構内を歩いて見たかったようだが、同行者を理工学部キャンパスに案内した。個人的な感慨よりもサークル活動の案内役という立場を優先させたのだった。
早稲田界隈散策は1月19日、稲門会の「歴史に遊ぶ会」と「悠々歩く会」が合同で行なったもの。中川さんは、「悠々歩く会」の世話役であり、早稲田界隈に詳しい。午前10時半にJR高田馬場駅に10人が集まった。
その10人がぞろぞろと明治通りを渡る。池袋方面に向う間もなく、都立戸山高校の正門前だ。一行の一人、浅井さんの母校だ。現在は鉄筋コンクリートの校舎だが、浅井さんが在校した頃は木造校舎だった。旧府立四中以来の名門校。戦後も日比谷、新宿、西の都立4校が東大合格者数を競った。当日の参加者の一人、櫻井さんは旧府立十中の都立西高校、中川さんは旧府立二中、立川高校の卒業生である。
戸山高校に隣接して学習院女子大学があり、その正門は国の重要文化財になっている。女子学習院は高等科・中等科もあり、キャンパスは広い。諏訪町の交差点を曲がる。西に緑の木々が見える。そこが諏訪神社の境内だと説明されながら東に向って歩く。やがてレンガの塀が続き、また女子学習院の門がある。道は坂になり、下って行くと馬場下町になる。北に穴八幡宮、南に早大記念会堂、文学部が立地している。半世紀前と変らない光景だ。
時刻は午前11時半になっていた。大隈記念タワーの15階にあるレストラン「西北の風」で昼食にしようということになった。見晴らしを楽しみながら食事を楽しもうという趣旨だが、レストランは予約が一杯でテーブルは一つしか空いていなかった。とりあえず4人だけ「西北の風」を利用することにし、残り6人は大隈会館内にある「楠亭」という教職員が利用する店に行き、午後12時40分に大隈講堂の前で再び合流することになった。
私は「西北の風」組で、メニューにある「馬車道」を選んだ。スパゲティだが、馬車道という名が気に入った。横浜の馬車道に由来する名であると思ったのだ。具にあさりが豊富に入っている。サラダとスープも付いている。サークル活動の歩きでは、お昼はお握りというのが定番だが、母校界隈の風景を眺めながらのレストラン食というのも、たまにはおつなものだと思った。
そのうち予約客が10人ぐらい連れ立って店に入ってきた。いずれも若い男女の学生であった。意外な思いがした。ぜいたくな学生たちだと思った。「君たちは学生食堂か界隈の学生相手の食堂に行くべきではないか」と内心つぶやいていた。店を出る時も、席が空くのを待っている男女の二人連れがいた。つい「ぼくが学生の頃は、こういう店には来なかったよ。君らはぜいたくだなあ」と口をついて出てしまった。二人ともニコニコと笑っているだけであった。
すぐに半世紀前の感覚で物を見ている自分に気づいた。私たちが学生の頃は、教職員や校友が行くような店は敬遠し、学生食堂か街の定食屋などで昼食をすませていた。その後の半世紀の間に外食革命と呼ばれる食文化の進展があり、若者たちの間にも広がった。「西北の風」の値段も、街で食べるよりはちょっと高いという程度に過ぎない。ぜいたく云々は見当違いだ。男女の学生は私の言葉を聞いて「変なことを言う爺さん」と思っただけであろう。
大隈講堂の前に行くと、「ドン!ドン!」と二度続けて大きな音がした。正門前の石段に車が乗り出している。大隈侯の銅像が建っている方向から大隈講堂に向うキャンパスを走ってきたのだ。その先は石段になっていることは、誰でも知っている。それなのに、どうして?と理解できない運転だ。大隈さんの目にも映っているはずだ。「最近の学生がやることは、わからんのであるんである」とかつぶやいていたかも知れない。
冷静に考えれば、運転していた若者は早稲田の学生ではないだろう。女友達を連れて大学構内にドライブかたがた遊びに来たのだろう。道があると思っていたところ石段が見え、急ブレーキを踏んでも間に合わなかったということかも知れない。バックもできず、前にも進めずお手上げの状態。運転者が誰よりも驚いただろう。
大学施設は高層化し、記憶にあるキャンパス風景は現実には見られない。構内を行く若者達に混じると、何か異邦人になったような気になる。半世紀前の早稲田が懐かしいが、もう遠い記憶としてあるのみだ。
早稲田界隈散策(中)漱石「硝子戸の中」の風景
大隈講堂から馬場下まで戻った。いよいよ夏目漱石ゆかりの街を歩く。早稲田通りを神楽坂の方向に向う。最初の交差点の角に「酒 KOKURAYA」という店がある。堀部安兵衛が、高田馬場で決闘する叔父の助太刀をするために駆け寄る手前で酒をいっぱい引っかけて行ったという店だ。その先に「漱石生誕の地」という碑が建っている。この話しは漱石晩年の作品「硝子戸の中」に以下のように出てくる。
私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、其実小さな宿場としか思われないくらい、小供の私には、寂れ切って且淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引外か分からない辺鄙な隅の方にあったに違いないのである。
(略)。坂を上がると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などは其一つであった。それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。尤も此方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、此処へ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞ其所に仕舞ってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。(硝子戸の中)
小倉屋については強盗にからむ話もある。小倉屋の主が自分のところに金はないが、夏目には金があると教えるという微妙なものだ。
彼等は、他を殺める為に来たのではないから、大人しくして居て呉さえすれば、家のものに危害は加えない。其代わり軍用金を借せと云って父に迫った。父はないと断った。然し泥棒は中々承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、其所で教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動なかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼等の前に並べた。(略)
泥棒が出て行く時、「此家は大変締りの好い家だ」と云って誉めたそうだが、其締まりの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦り傷がいくつとなく出来た。是は金はありませんと断わる度に、泥棒がそんな筈があるものかと云っては、抜き身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません。裏の夏目さんには沢山あるから、あすこへ入らっしゃい」と強情を示し、とうとう金は一文も奪られずにしまった。(硝子戸の中)
小倉屋の人たちは、「硝子戸の中」の以上のくだりを読んで、どのように思っただろうか。安兵衛が立ち寄った話しは、店のイメージアップに役立つであろうが、泥棒に情報を流したという先祖の話しには、おそらく困惑したであろう。
「漱石生誕の地」の碑がある角を右に上がれば、夏目坂だ。漱石の父の直克は名主であった。
此町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、年代はたしかに分からないが、何でも私の父が拵えたものに相異ないのである。
私の家の定紋が井桁に菊なので、夫にちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、又は他のものから教わったのか、何しろ今でも私の耳に残っている。(略)
父はまだ其上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名を付けた。不幸にして是は喜久井町程有名にならずに、只の坂として残っている。
夏目坂は上らず、そのまま神楽坂の方向に進むと、右に折れる細い道があり、漱石山房通りと名付けられている。通りの奥に漱石の旧宅があった。旧宅が漱石山房であり、現在は新宿区の公園として整備されている。
通りの左に公園の入り口があり、中に入ると空き地になっており、その先から右に開けている。まず猫塚が目に入る。「吾輩は猫である」の猫の墓ではない。漱石没後に遺族が飼っていた猫や犬、小鳥の供養のために建てた俗称「猫塚」である。。昭和28年に漱石の命日に合わせて復元されたものだ。
以上の説明は銘板に記されている。それによると、漱石は明治40年9月29日から亡くなる大正5年12月9日までこの場所に住んだ。漱石終焉の地である。ここで「坑夫」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「こゝろ」「硝子戸の中」「道草」が書かれ、「明暗」を執筆中に死去した。
猫塚の傍にミニ資料館があり、漱石関連のビデオが放映されている。漱石を直接知っている人はもうこの世にいないが、長女・筆子の娘の松岡陽子マックレインさんや半藤末利子さん(半藤一利夫人)らがビデオに登場していた。資料館では新宿区地域文化部文化観光国際課発行の小冊子「漱石山房の思い出」を無料サービスしている。「漱石山房とその魅力」「木曜会に集まった弟子たち」と題した松岡さんの講演の内容が載っている。また「夏目漱石の生涯」と年譜、家族などについても記されており、漱石をよく知る人にも役立つ。また知らない人には、なおさらに便利なものであろう。
漱石公園のもう一つの出口を通ると、そこが正門であった。大理石に夏目漱石と横文字ではめ込まれ、同じく「即天去私」は立て文字だ。そのうえに漱石の胸像が乗っている。
漱石公園がある場所は早稲田南町だが、喜久井町から原町に出る。その通りの左側は三井住友銀行の施設になっているそうだが、旧有島武郎邸という案内が出ている。大正13年から一年間だけ住んだという。有島は里見の長兄であり、「或女」「カインの末裔」「生まれ出づる悩み」などの作品を残している。
多摩稲門会が1月19日午前に続いて昼食後に行った散策は「歴史に遊ぶ会」「悠々歩く会」というよりも「文学散歩の会」となった。旧有島邸をそのまま進めば夏目坂に出て早稲田通りまで下れば、地下鉄東西線の早稲田駅になる。馬場下まで戻り、穴八幡宮の石段を上った。冬至から節分まで参道に露店が立ち、参詣客で賑わっている。穴八幡宮は漱石夫人、鏡子が漱石の虫封じにお参りしたという。
私が学生時代を過ごした頃から馬場下の風景はかなり変わっている。然し、その変貌は漱石が見たものの比ではないようだ。「硝子戸の中」の一節にうかがえる。
私が早稲田に帰って来たのは、東京を出てから何年振になるだろう。私は今の住居に移る前、家を探す目的であったか、又遠足の帰り路であったか、久し振りで偶然私の旧家の横へ出た。其時表から二階の古瓦が少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私は其儘通り過ぎてしまった。
早稲田に移ってから、私は又其門前を通って見た。表から覗くと、何だか故と変らないようような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板が懸っていた。私は昔の早稲田田圃が見たかった。然し其所はもう町になっていた。私は根来の茶畑と竹薮を一目見たかった。然し其痕跡は何処にも発見することが出来なかった。多分此辺だろうと推測した私の見当は、当っているのか、外れているのか、それさえ不明であった。(硝子戸の中)
漱石は「硝子戸の中」で『「時」は力であった』と書いた。早稲田田圃が見られないと漱石が落胆してから50年後の早稲田界隈で私は4年を過ごした。それからまた50年後に早稲田界隈を歩いた。まさに「時」の力による街の変貌を実感せざるを得なかった。
早稲田界隈散策(下)甘泉園から神田川遊歩道
穴八幡宮に詣でた後、石段のある道には戻らず、早稲田通りに出る坂を下った。通りの反対側に西早稲田のバス停があり、高田馬場駅から大学に行く際は、正門まででなく西早稲田で降りたものだった。ちょっと戻って細い路地を歩けば、西門からキャンパスに入られた。4年間通った道で、目をつぶっても歩けるといった感じだ。この路地は学帽を売る店や古本屋が軒を並べていたという記憶だが、今は飲食店に変わっている。
大学キャンパスの北側は、西早稲田交差点から南東の都電通りまでグランド坂で、その坂の名が示すように阿部球場が広がっていた。球場は移転し、その跡は中央図書館をはじめ大学施設に変貌している。グランド坂と言う名だけが往時の名残りを止める。
球場の西側に通りを隔てて甘泉園があった。現在は大学キャンパスの西側ということになる。多摩稲門会の一行はその甘泉園に向った。グランド坂になる道を右横に見ながら新目白通りに突き当たる広い通りを北に向う。
道の左に長方形の通りというよりは広場といった空間が開けている。ここ西早稲田3丁目が高田馬場跡だ。徳川旗本たちの馬術の練習場であった。穴八幡宮に奉納する流鏑馬が行なわれた所でもあった。流鏑馬は、将軍が供覧したという。享保年間(1716~1753)には馬場の北側に松並木がつくられ、八軒の茶屋があったともいう。
高田馬場は堀部安兵衛が剣客として活躍した舞台。越後新発田藩の浪人、中山安兵衛が高田馬場で決闘する義理の叔父を助太刀し、相手を切り倒してヒーローとなる。その腕に惚れ込んだ赤穂藩士から養子に所望され、堀部安兵衛となる。赤穂藩は藩主の浅野内匠頭が江戸城中で高家吉良義央に切りつけ、城中での刃傷沙汰を理由に取り潰され、切腹した。その仇をとろうと四十七士が吉良邸に討ち入る「忠臣蔵」で、安兵衛はまた名を上げる。
高田馬場跡は水稲荷神社の境内となっており、安兵衛の武功を讃える石碑が建っている。
水稲荷神社の社殿に向う途中に「この辺り一帯が山吹の里」という案内を目にした。江戸城の礎を築いた太田道灌がにわか雨に遭い、農家で蓑を借りようと立ち寄ったところ、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出したという故事が伝わっている。「七重八重 花は咲けども やまぶきの実の一つだに なきぞかなしき」という歌の「実のひとつない」に「蓑はない」を掛けているのがミソという出来過ぎた話しである。
水稲荷神社は以前、早大キャンパス内の商学部の近くにあったという。按田先輩が石碑を読んで確認した。神社は現在の地に遷座したのだ。以前の社を知らないので何とも云えないが、社は思ったよりも立派に見えた。
水稲荷神社から道を少し戻り、隣接の甘泉園に入った。多摩に住んでいる身には何ら珍しくないが、都心のオアシスといった観を呈している。冬木を見ながら道を下って行くと、池に出た。絵になる庭園である。
まだ学生の頃に来たことがあるくらいだから昔の風景に記憶があるわけではないが、当時の方が野趣に富んでいたように感じられる。昼休みを利用して甘泉園に遊ぶと、雄弁会の連中が池を挟んで「早稲田精神は!」などと蛮声を張り上げていた。
休憩所があり、一行は昼食後から歩き詰めの脚を休めた。その後、神田川方面に向って歩いた。甘泉園の出口と思った所が正門であった。「甘泉園案内」という板が立っている。それを読むと、園内に湧き水が出て、茶の湯に適したという。それが園の名の由来だ。
安永3年(1774)、8代将軍・徳川吉宗の男子たちを立てたご三公卿の一つ、清水家の下屋敷がつくられ、その庭園になった。高田馬場の流鏑馬を供覧した後、吉宗が清水家の下屋敷でくつろぐといった光景が想像できよう。甘泉園は早稲田大学が所有していると思っていたところ、東京都が取得し、新宿区が管理していることがわかった。
甘泉園を離れて神田川に沿って西に向い歩く。神田川遊歩道である。都営荒川線が並行する。早稲田駅の次は面影橋駅。神田川に架かり、早稲田と目白側の高台をつなぐ。
「面影橋の由来」と題した説明の銘板に「姿見の橋。歌人の在原業平が鏡のような水面に姿を映したため」などと諸説を紹介している。昔は鏡のように美しい川であったことがわかる。
同行の浅井さんの父は先日、103歳の大往生を遂げられたが、子供の頃は神田川で泳いだとよく話したそうだ。
私が学生の頃、まだ「早稲田小唄」といった唄が歌われていた。「向こう女子大 こちらは早稲田ヨイヨイ 仲をとりもつ ちょいと面影橋 リャリャスコランラン ヨヨスコヨイヨイ♪」。正確であるかどうかはわからない。うろ覚えの唄だが、当時の学生は他愛のないものだったことがこの唄からもわかる。
ヒットした唄「神田川」はもう一つ若い世代のもの。「窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿 あなたは私の指先見つめ 悲しいかいってきいたのよ♪」などという歌詞から判断して貧しさはたいして変らなかったようだが、私たちの時代は、恋人がいない学生が多かったし、まして同棲している者は私の友人、知人にはいなかった。
面影橋から曙橋を過ぎ、高田橋に出る手前で明治通り沿いに走って来る電車が見えた。慌てて足を止めた。踏み切りはなく、警笛も電車が停まる直前に鳴った。電車も、路線が車道に入るため、信号待ちした。都電もどうせ停車するのだから警笛を鳴らすタイミングもそれでいいわけだ。
「薬屋が多いね」。同行者の声に見渡すと、大正製薬の看板が見えた。ふと記憶が甦った。私は車でテレビ営業の得意先を回り、大正製薬も訪れたことがあった。私が勤めた名古屋のテレビ局にとっても、大正製薬は大事なスポンサーであった。
明治通りを渡り、神田川に沿ってしばらく歩くと、西武新宿線たJR山手線を走る電車が見える。高田馬場駅が近い。駅に到着した時は午後3時半。途中の休憩を入れて、5時間の散策だった。
◇
散策後、高田馬場駅から山手線に乗り、新宿駅で京王線に乗り換え、聖蹟桜ヶ丘駅で下車し、最寄の「鳥はな」でお疲れさん会をもった。小宴の初めに私から稲門会のサークル「歴史に遊ぶ会」と「悠々歩く会」は発展的に解散し、一つのサークルとしてまとまりたいと述べ、出席メンバー10人全員が賛成した。
どちらのサークルも最近は活動内容が似通ってきた。「歴史に遊ぶ会」は史跡めぐりを企画すると参加者がまとまる。「悠々歩く会」もコースのメニューに史跡が加わることが少なくない。両サークルのメンバーも重複しており、合同で実施することが自然になっている。合同実施は今回で2度目、次回からは一緒に行動する。サークル名は歴史にこだわり、「歴史に遊ぶ会」とすることで合意した。隔月実施を確認し、次回の第14回は、旧東海道品川宿の今昔を見ることを申し合わせた。案内役は会長の按田さんが引き受けてくれた。
この晩は談論風発した。誰か特定の人物が長広舌をふるうこともなかった。突然の発言で会話の流れが中断することもなく、会話がかみあった。それは早稲田界隈散策の内容に大方が満足していたからであろう。
(文責・川面)