「歴史に遊ぶ会」で「会津戊辰戦争」史談
2013年05月19日
多摩稲門会のサークル「歴史に遊ぶ会」で会津出身の星野英仁会員が5月10日「会津戊辰戦争」について語った。会津松平藩祖・保科正之の生涯をテーマにした先の講話に続くもの。会場となった多摩市の公民館「ベルブ永山」のサークル室に12人が集まり聴講した。以下は要約である。
鶴ヶ城攻防まで
嘉永5(1852)年、松平容保が19歳で会津藩主になった。京都の治安が乱れ、幕府は京都守護職を置くことになったが、守護職を引き受ける者が誰もいなかった。そこで守護職設置の推進者だった越前藩主、松平慶永が容保に就任を求めた。容保は何度も断ったが、慶永は会津藩の徳川宗家の盾になるという家訓を持ち出して説得した。家訓の第一条には会津藩は徳川宗家を大切にすべきということが書かれており、そのことは広く知られていた。容保も家訓には従わざるを得ず、家臣たちの反対を押し切って引き受けた。
京都の治安を保つためには千数百の兵力が必要で、その出費負担に会津藩は困窮した。それでも容保には天皇をお守りしなければならないという気持ちが強かった。孝明天皇からは信任された。文久3(1863)年8月、尊攘派の公卿7人が長州落ちする文久の変が生じた。その際の会津藩の働きに対してご宸翰と先の御製の歌をいただいている。
将軍家茂が上洛したが、慶応2(1865)年に大阪城で没し、その後で孝明天皇が薨去された。公武合体の主役がいなくなったわけである。
慶喜が将軍となり、大政を奉還したが、討幕の密勅が下り、慶応4(1868)年1月3日鳥羽伏見の戦いとなった。東軍(幕府軍)は西軍(新政府軍)に押され、大坂城に退いた。慶喜は大坂城から容保、松平定敬(桑名藩主)、老中の板倉勝静らを連れて軍艦で江戸に帰ってしまった。
江戸の慶喜は、容保と定敬の登城を差し止め、自分は上野の寛永寺で謹慎した。会津藩は朝廷に楯突く考えはないと嘆願する一方で、3月には守りの体制をとった。西軍の鶴ヶ城攻撃まで半年もなかった。
西軍が会津に迫るルートにのうち越後口には佐川官兵衛、日光口には総督が大鳥圭介(幕臣)、副総督に山川大蔵、白河口の総督には家老の西郷頼母を配した。
越後口は兵員数が圧倒的に多い西軍の攻撃をよくしのいだ。日光街道の山川は兵の使い方に優れ、善戦していたが、帰城命令が出て日光街道を去った。
白河口は兵員数が優っていたが、籠城作戦をとり惨敗した。西郷頼母は短気で激しやすく人の意見を聞かない性質だった。白河は守るのが難しい城であり、新撰組の斎藤一は城から出て戦うことを進言したが、頼母は耳を傾けなかった。実戦経験のある斎藤の意見を取り入れる度量がなかった。
東軍は混成部隊で連絡が十分伝わらなかったとか、重火器が西軍に比べて劣るといったことが敗因に挙げられるが、要は指揮官の人材が不足していたと言える。
西軍は8月、母成峠から若松城下に攻め込んだ。鶴ケ城に籠る戦いになったが、武器も食糧も十分でなかった。
頼母の家族は城に入らず自決した。その時の一族の死者は親戚を含め21人を数える。城内に入っても、足手まといになるのであれば、自決すべきという考えがあったようだ。
西軍は鶴ヶ城を一望する小田山から砲撃を開始した。砲弾は、城内の女子が布団を濡らして包み、爆発しないようにしたが、むろん爆発するものもあるわけで、山川の妻はそれで亡くなった。
鶴ヶ城の攻防では女子がよく戦った。籠城戦を一か月続けられたのは、「八重の桜」の八重が鉄砲を打つなど女子の働きがあったからだ。
会津戦争は、組織の戦いというよりは個人が頑張った戦いであった。参謀本部のようなものがなかった。そうしたなかで山川の指揮ぶりは特筆される。
容保と頼母
容保は美濃高須藩からの養子である。至誠の人で、京都守護職になって烈火のごとく怒ったことがあった。長州は貧乏公卿に金を与えて朝廷を動かしているのだから会津も同じように対抗すべきという提言に対して「策を弄するな」と言った。
容保は守護職を引き受けるに際して家臣たちに諮りながら自分の気持ちを伝えた。しかし、引き受ければ先行きどうなるか、誰もがわかっているので守護職引き受けに反対した。家老の西郷頼母をはじめ田中土佐も反対した。しかし、守護職を断れば、保科正之がつくった家訓に反することになり、会津藩の名をきずつけることになると考えて容保は守護職に就いたわけである。
頼母は、保科正之の養父である正光の弟の子孫である。代々家老職で容保よりも5才年長であり、また先祖以来会津の人間という気持ちがあったのか、容保に対して強く出る傾向があったように思う。
家老になった文久2(1862)年、田中土佐とともに江戸藩邸に行き、容保の京都守護職就任を諫止しようとした。翌年には京都に行き、守護職になっていた容保に対し守護職を辞めるように進言した。しかし、容保から免職にされ、会津に帰国、長原村に栖雲邸を営み隠棲した。
ところが、頼母は慶応4(1868)年1月4日に家老に復帰した。どうして復権させたのか、容保や家老たちの考えがわからない。戦は下手であり、人の使い方も知らない人物であるが、やはり門閥の人であったからであろうか。
西軍が若松城下に迫り、西郷家21人が自刃して果てたが、一族は辞世の歌を残している。妻の千恵子は当時34歳であったが、「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬふしはありとこそ聞け」と詠んだ。「なよ竹の碑」が今、善龍寺に立っている。
頼母は早鐘で鶴ヶ城内に入るが、容保をはじめ家老たちは切腹すべきだと激して言った。秋月悌次郎が止めても意に介さなかった。頼母はその後、仙台、函館まで行った。
維新後は神社の宮司になったが、西南戦争で西郷隆盛に与した疑いで解任された。頼母と隆盛にはどういうものかわからないが、何らかのつながりがあった。頼母は隆盛に何かを頼んでいる。頼んだ手紙は見つかっていないが、隆盛の返事の手紙は残っている。一つは「首尾は上々うまく行きました」というもので、もう一つは「ちょっと難しい」といったものだ、何を頼んで、何の返事なのかはわからない。頼母はかなりのお金を隆盛からもらっている。
明治13(1880)年、容保が日光東照宮の宮司に就任したのに従い、頼母は禰宜になった。容保は常時東京にいたので、頼母が実際には東照宮の宮司の仕事をした。そのことを考えると、二人は和解していたのではないだろうか。
頼母はあまり評価されていないが、容保に京都守護職を引き受けるなと言い、引き受けた後はやめろと進言したり、朝廷に恭順するように言い続けたり、それなりの人物であると思う。