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会津藩の改革歴史談に10人参加

2013年10月13日

サークル「歴史に遊ぶ会」では会津出身の多摩稲門会員、星野英仁さんが講師となり、史談会を行った。「会津保科藩の成立について」、「会津戊辰戦争」に続くもので、第3回目の演題は「田中玄宰と会津藩の寛政の改革」。会場となった京王線聖蹟桜ヶ丘駅近くの「鳥はな」に10人が集まり、勉強会と懇親会で秋の一夕を有意義に過ごした。

 

星野さんは聴講の会員にA4大で7Pの講話の草稿、会津藩主の松平容頌(かたのぶ)と家老の玄宰(はるなか)の時代の歴史年表などを配布し、玄宰は容頌の支持を受けて改革を断行、それにより会津藩は幕末動乱期に藩祖の保科正之以来の会津精神を発揮することができたなどと詳細に述べた。

 

星野さんによると、玄宰は天明元年(1781)に家老に就任した。当時は米の収穫量や人口が減り、藩財政が行き詰まったが、玄宰の改革で安永元年(1772)に57万両もあった藩の借金は文化元年(1804)には9万両にまで圧縮した。

 

玄宰は政治、経済、軍制、教育、産業、文化などあらゆる面で改革を行った。「藩機構の再編・人材の登用」は、現代の行政改革に当たり、保守的な勢力が抵抗勢力となるが、藩主の容頌が玄宰に全幅の信頼を与えたことで実行できた。「郷村支配体制の再構築」は、郷頭という世襲の村役人を必要としない郷村の支配体制を整えたもので、既得権を廃したと言える。

 

「産子養育」は子育て支援。生活苦から間引きが慣習となり、人口減をもたらしていたが、藩の支出や篤志家の寄付金などで困窮家族に養育費を支給した。天明5年(1785)に1571人だった産子数は寛政5年(1793)には3553人に増えた。

 

「軍備」について玄宰は「戦いの極意は戦わずして相手を屈服させるのが一番」とし、そのためには普段から会津藩の強さ、軍備の充実を他藩に認識させておくことが必要と考えた。抑止力の強化が目的だった。

 

「教育改革」は、荻生徂徠派の学者を招き、日新館を完成した。徂徠学は「学問すること自体が人間の目的ではなく、学問を使って民を安からしめ、世を救うこと」を狙いとするものであった。実学に通じるものであろう、

 

そして玄宰は「殖産興業」を積極化した。漆・漆器、藍・綿、養蚕、陶磁器、酒造、薬用人参など多岐にわたった。商品によっては長崎から輸出もした。

 

玄宰は文化5年(1888)、61歳で生涯を閉じた。現代にも望まれる人材だ。あまり知られていない人物だが、もっと玄宰に学んでもいいというのが聴講後の感想である。

(文責・川面)

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