六大学野球の記憶
2024年8月4日 湯浅芳衛 記
(1) 六大学野球との出会い。
私が六大学野球を知ったのは1948年小学校4年生の時のNHKラジオ放送でした。対戦相手、試合内容は全く記憶にありませんが『早稲田・磯野主将のファインプレーです』のアナウンスが今も耳に残っています。その試合は恐らく早慶戦だったのでしょう。その影響で勉強はそっちのけにして小学生向けの月刊雑誌に写真入りの「早慶戦の紙上中継」をむさぶるように読んでは試合の場面を想像して蔭山、石井(藤)、末吉、宮原等名選手の名前を覚えて楽しんでいました。
(2) 1951年初観戦
1951年の中学1年春に六大学野球を同級生と武蔵野グリンパーク球場で初観戦しました。当時はまだ占領下の為、神宮球場は米軍の都合で使用できない場合が多くその時は早稲田、東大の球場や上井草球場(現在はない)での試合でした。当時球場不足対策の一環で私の生まれ育った三鷹市中央線三鷹駅から支線をひいた武蔵野グリンパーク球場が建設され1951年に完成しました。六大学とプロ野球に使用されたものの使い勝手や集客にも不便な為1年で廃止されました。六大学野球もその年に19試合行ったと記録にあります。
私が観戦したのは早立戦で1回戦先勝後の2回戦でした。このシーズンは早稲田が50春~51春の3連覇の 最中で強くて投打に圧倒して問題なく連勝しました。
目を引いたのは大型三遊間と謳われた広岡、小森でした。彼らは1年生からレギュラーで2年になったこのシーズンはプレーに磨きがかかり自信満々でした。隣で観戦していた選手経験者らしき年長者二人が盛んに褒めていました。特に広岡は従来「ショートは小柄」の定説を覆して180㎝で腰高の華麗なプレーは女性ファンの人気を独り占めでした。今は幻となったこの球場の試合を観た人は何人現存しているか懐かしい気持ちです。
(3) 長嶋茂雄は本当に凄かった!!六大学が生んだ史上最高のスター。
私が早稲田に入学した1957年は立教の長嶋、杉浦、本屋敷の3羽ガラスが4年生で活躍して春秋連覇しました。しかも3年生には森滝、片岡、浜中等その後プロ野球で活躍した選手も多く58年も春秋優勝して4連覇した上、更に1,2年生にも有望選手が控えていたので在学中優勝経験なしで卒業かなと不安になりました。
やっと3年春に5連覇を阻止して優勝パレードが出来て早稲田に入って良かったと心底思いました。
1年生の時の早立戦にはすべて行きましたが長嶋人気で満員でした。試合は早稲田が春秋共に連敗でした。
特に秋の1回戦は杉浦が最高の投球でノーヒットノーランの準完全試合でグーの音も出ませんでした。
私が驚いたのは長嶋のプレーで、走攻守共にすべてがで球場をはみ出すほどの躍動感がありました。中でも右中間を破って三塁打にする時に二塁を回って3塁に殺到するランニングは迫力満点でした。守ではショートの守備範囲のゴロでもカットしてランニングスローで魅せました。
打で印象に残っているのは試合前のフリーバッティングで長嶋が3本オーバーフェンスを見せると早稲田の
森は5本柵越えして早稲田応援席は大喝采と二人の競演はみものでした。遠くへ飛ばす能力は森の方が上かもしれませんが総合的には長嶋がずっと優っていたと思います。森は柔道で上体のパワーは凄かったが惜しむらくは下半身の鍛え方が足りなかったのではと素人考えをしています。
長嶋は2度首位打者になりましたが世間の注目は通算本塁打でした。それまでは戦前の最強打者と言われた慶応・宮武三郎と早稲田・呉明昌捷の7本でした。長嶋は4年春に7号を打ち騒がれて、8号は彼の六大学最終試合の慶立戦2回戦に打って大ニュースでした。その試合はNHKでテレビ中継され私も視聴しました。
長嶋が卒業して世間の注目がプロ野球に流れて六大学の人気が下降したと私は見ています。
(4)『伝説の早慶6連戦』 (1960年11月6日~12日)
学生野球史上屈指の名勝負と語り継がれる60年秋の早慶6連戦は丁度大学最終学年でしたので思い入れは人一倍です。今でも大学の同級生は勿論の事、高校同期で慶応に行った仲間とこの思い出は繰り返し話題になります。早慶戦前までの戦績は慶応が順調8勝2敗の勝ち点4、早稲田は前週の明大4回戦で安藤が打たれて7勝3敗1引き分け。慶応は早慶戦で勝ち点を取れば完全優勝、1勝2敗で優勝決定戦、連敗すると早稲田の優勝。
一方の早稲田は連勝なら優勝、2勝1敗で決定戦と厳しいシチュエーションでした。戦力でも投手陣は慶応がと
清沢、角谷、三浦、北野の4本柱(いずれも3年)で完璧に対し、早稲田は金沢(4年)が直前の投球練習中指を故障して万全でなく、安藤(3年)が頼りでした。攻撃は両校互角と見られていました。
優勝の懸かったとあって球場は超満員、両校学生席は早稲田・フクちゃんと慶応・ミッキーマウスのデコレーションを背に応援合戦で盛り上がりました。13時30分試合開始と同時に双方応援席から伝書鳩が放たれ、合流した鳩の飛ぶ方向が一塁側なら早稲田、三塁側なら慶応の勝利との言い伝えがあった。応援席の歓声が一段とヒートアップしたためかこの時はセンター方向に飛び去ったので引き分けかなと冗談半分に友達と予想しました。
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以下に6連戦の経過を記述します。
①1回戦11月6日(日):早稲田2対慶応1
試合は安藤が投球数113、被安打6、与四死球1、奪5三振、自責点1と好投して早稲田が2対1で先勝しました。然しこの試合は慶応が9回裏に0対2から1点を返してなお1死走1・2塁と逆転サヨナラのチャンスが続き5番小島がセンター背後に大飛球を放ったので一瞬肝を冷やしました。早稲田センターの石黒がバックして好捕して2塁手村瀬が中継し、3塁手徳武主将に送球して3塁進塁を図った慶応・渡海主将を刺して一瞬のダブルプレー。早稲田の中継プレーは見事で日頃の練習が実ったシーンで早稲田は先勝して有利になりました。
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②2回戦11月7日(月);早稲田1対慶応4
慶応が足と早稲田の失策を絡めた速攻で1,2回に3点を先取しました。早稲田先発金沢は安打7、四死球4、自責点1、4失点と苦しい投球でしたが9回完投して2番手の役割を何とか果した。むしろ2回から登板の角谷に3回の1得点に終わった打線に問題ありと感じた。
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③3回戦11月8日(火):早稲田3対慶応0
早稲田は清沢から1,8回に1点ずつ得点して更に9回遊ゴロで徳武が3塁から強引にホームをつき、タイミングはアウトと思いましがスパイクを上げてスライディングして大橋捕手の落球で1点を加えた。これに対して慶応が抗議するも球審はホームインを認めた。徳武は謝ろうと大橋に近寄ったが“文句をつけにきた”と慶応側が勘違いして渡海主将らが徳武を取り囲んだ。場内は殺気だったが両監督が直ぐ中に入って収めたがその裏に3塁の守備についた徳武めがけて慶応学生席からミカン、空き缶が投げ込まれ場内騒然あわや”第2のリンゴ事件“かと思われた。この時慶応前田監督が3塁コーチボックスに立ちいきり立つ応援団のなだめ役をつとめてようやくゲームが再開された。これは前田監督のファインプレーだった。この場面は下手をすると没収試合になり、汚点を残す可能性もあった。徳武は前田氏に恩義を感じて年賀状を欠かさなかったと言う。試合は安藤が107球、安打6、四死球1、三振5、自責点0で完封して3対0で早稲田が2勝1敗として、両校9勝4敗同率の優勝決定戦に持ち込まれた。
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④優勝洋決定戦11月9日(水):早稲田1対慶応1
優勝決定戦となり球趣は益々盛り上がり平日ながら満員になった。早稲田は安藤が第3戦に続き連投、慶応は角谷が第2戦から1日置いて登板した。安藤は2回に渡海の3塁打に続く大橋の犠飛で先取点をとられたもののその後は追加点を許さず延長11回を111球、4安打、1四球、3三振、自責点1と完投した。角谷は9回表まで無失点で好投して9回表1死無走者で得点は早稲田0対慶応1なので負けを覚悟した。早稲田石井監督は次打者末次をひっこめて代打に控えの大型捕手鈴木を代打に送った。末次は2年生ながらレギュラー遊撃手で早慶戦迄打撃ベストテン5位の粘り強い好打者であったのに対し、鈴木(2年)は試合経験が乏しく、長打力はあるが打撃が粗いのでこの代打策に私は疑問に感じた。ところが鈴木は右中間を破る起死回生の長打を打って3塁にヘッドスライディングしたのを鮮明に覚えている。次打者石黒がしぶとくライト前に流し打ちして同点にした。
この場面を慶応に行った高校同級生は『勝利を確信して新聞紙を破って紙吹雪にしたのに』と後で口惜しがっていた。11回終了時点で16時15分となり、当時ナイター設備がない為試合続行不能で引き分け再試合になった。チケットの印刷が間に合わないので再試合は1日空けて11日になったと聞いた。もし10日に再試合となっていたら安藤は9日と連投になり、試合結果は変わっていたかも知れないと慶応同級生は言っていた。
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⑤優勝決定戦再試合11月11日(金);早稲田0対慶応0
勝負は史上初の再度の優勝決定戦に持ち込まれて応援する学生も極度に興奮して試合終了と同時に翌日の試合の切符売り場前に長い行列が出来て徹夜マージャンの支度をする者もいた。現に私の友人も早慶にいました。
この試合、早慶双方の投手が好投して両校無得点で延長11回0対0の日没引き分けとなった。
早稲田・安藤が11回132球、7安打、5四死球、4三振、自責点0に対し、慶応・角谷、清沢が二人で149球、8安打、4四死球、4三振と相譲らぬ好投でした。絶体絶命のシーンは0対0の11回裏でした。慶応は先頭の俊足安藤が四球、2番榎本とのヒットエンドランが決まり右前安打で無死1,3塁となり、小島敬遠で無死満塁。次打者の渡海は引っ張る打者なのでレフトフライを警戒して強肩の鈴木(勝)をレフトに起用して、弱肩の左翼伊田を右翼にまわした。渡海はこれを見越してか右飛を打ち上げて我々は犠飛かと観念した。所が伊田から一世一代の絶好の返球が捕手野村に。安藤はヘッドスライディングしたが宇野主審の右手が上がりタッチアウト。なおも慶応は2死2・3塁の好機が続き強打者5番大橋だったので石井監督は大橋を敬遠して満塁策を取り、次打者と勝負させて三振に討ちとりチェンジとなった。すでに暗くなり主審は日没引き分けを宣告した。早稲田は九死に一生を得て大歓声を上げ、慶応は昨日に続いて勝ちを逸して意気消沈した。
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⑥優勝決定戦再々試合11月12日(土):早稲田3対慶応1
早稲田の先発はまたも安藤に対し、慶応は清沢、角谷、三浦、北野の4人を総動員して対応した。
早稲田が2回に徳武の安打と野村の二ゴロ失から得た1死1,2塁のチャンスに所がレフトオーバーの三塁打で2点先取して更に5回表には徳武の三遊間安打で1得点した。安藤はその裏の慶応の反撃を1点に抑えて9回を3対1で投げ切り、投球数101、安打5、四死球1、三振4、自責点1だった。早稲田優勝最大の貢献者安藤は5試合の延長戦含み49イニングを564球、安打27、四死球9、三振21、自責点3、防御率0.551の超人的活躍だった。
試合直後は勝ち負けより“やっと終わった”が実感で両校応援団が校歌・塾歌を斉唱してエールを交換してお互いの健闘を称え合ったのち、歓喜に酔い「早稲田の栄光」をゆったりと大声で歌ったことを今も思い出します。
安藤は1996年に享年56歳で亡くなりました。葬儀は築地本願寺で営まれて私は1学年上の同世代であったので青春の挽歌と考えて通夜と告別式に参列しました。彼は卒業後東映フライヤーズに入団し、1年目は13勝、日本シリーズで2勝して最優秀投手賞でしたがその後は4勝してプロ生活を4年で終えました。
「6連戦で」完全燃焼したと私は思っていたので、式場に早慶戦と思われる大写しの彼の下手投げの投球写真を見て当時を思い出して万感胸に迫りました。
早稲田石井監督(当時28歳)は「一球入魂」を、慶応前田監督(当時30歳)は「エンジョイベースボール」を指導理念として徹底する卓越した指揮官でした。「6連戦」は両監督の功績大と思います。石井氏は2015年、前田氏は2016年に逝去しました。2020年に揃って野球殿堂入りして2020年春早慶1回戦の試合開始前にお二人のご子息に伝達されました。
「早慶6連戦」は学生時代のかけがえのない思い出として一生残るであろう。感謝したい! (完)