第135回「岩殿山」(2013.03.16)の山歩記
例年より寒く感じた冬が終り、初春の季節は その反動で相応しくない程の、気温の高い日が続いていた・・・
中央本線大月駅に10時少し過ぎに降りてメンバーが揃った。今日3月16日のメンバーは、櫻井和子さん・橋本孜さん・宇田川登さん・遠藤千尋さん・金子宏二さん・長張紘一と、あわせて6名である。
宇田川さんは山中湖の自宅から自家用車でここに駐車した後、落ち合った。澄みわたった空と、気温も寒からず暑からず絶好の登山日和に恵まれた。大月駅の背後には、岩殿山の太鼓腹の様な鏡岩と呼ばれる岩壁が間近に見え聳えていた。出がけの上着は一枚脱いで、丁度よい気候となっている。
15分程進むと登山口に着く。整備された石の階段が続いていた。上部にある階段を登る登山者や、頂上にある展望台から景色を眺めている人達の姿も見えていた。長く続く階段は かなりの傾斜である。南側にある富士の勇姿は、高さが増すに従って、徐々に浮かび上がってきた。
その昔、岩殿山城は岩殿山に築かれた山城跡で、小山田氏の居城であった。戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていた。1582年に織田軍が甲斐に侵攻した時に、小山田信茂は織田方に寝返り、岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼を郡内に入れず、進退に窮した勝頼は天目山で自害した。武田家を滅亡させる事に深く関わった小山田信茂だが、この戦いの後、織田信長により処刑された。
岩殿山中腹にある「ふれあいの館」からの富士の眺めは、桜の開花と合わせて、秀麗富嶽十二景の一つとして、大月市のシンボルに選定されている。 因みに 「ふれあいの館」は入場無料で、築城や落城の経緯や小山田氏の謀反を否定する記事、霊峰富士の写真コンテストが展示されていた。
更に石の階段を上って行く。やがて頂上に到着。お昼少し前である。富士は中腹まで雪が積もり、三つ峠、高川山、御正体山と山並みが見渡せ、眺望は一級であるが、眼下真下まで見渡せる街並みや、中央自動車道の帶や桂川の流れが箱庭のように広がる姿も一級である。山頂には、ちらほらと人が散見されるが、四阿の下のテーブルを確保でき、囲んで食事をとる。
山頂広場は比較的平坦ではあるが、東側は少し高度が上がり、パラボラアンテナ設備が築かれている。ここが、標高634mのようだ。スカイツリーと同じ高さで、人気が上昇している。
スミレが あちこちで咲きはじめているが、樹木の新芽は まだ出たばかり。梢越しに下の街並みが見渡せる。
今の時期は、黄色の花のダンコウバイが目立つ存在で、背景に百蔵山・扇山を入れた春の山の景色を撮ることができた。
中腹にある七社権現堂が祀られたといわれる、巨大な洞窟に寄り道した。幅は3〜40m程奥行は2〜30m程の かなり大型の自然の洞窟のようである。
急な階段を更に下り、車道に出た。今日は、岩殿山の東コースであり、日本三奇橋の一つである名勝猿橋を見物する。30mの長さを両岸から張りを積み上げて四層の、はね木で上部を支えている。現在の橋は資料を元に復元されたものであるが、最初の橋は当時の最先端技術であったようだ。
橋下からも見上げる、観察コースもある。桂川の深い淀みと、橋の広重の浮世絵は有名である。岩殿山の登山道から降りて一般道を歩く事になるが、平坦な田舎の景色を十分に堪能し、3時過ぎに猿橋駅に着いた。ここで、宇田川さんと別れ、車を駐車した大月駅前に更に歩いて向かっていった。
高尾駅で降車し南口の居酒屋「たまの里」で喉を潤し、相原から堀之内まで歩いた浅井隆夫さんを迎えることができた。