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古刹とビール工場を見学
2013-05-26
多摩稲門会のサークル「山歩きの会」Bコースの5月例会は府中市のサントリー武蔵野ビール工場を見学した。風薫る23日午後1時、京王線分倍河原駅前に世話役の長張幹事長をはじめ9人が集まった。分倍河原の古戦場跡である駅前には鎌倉攻めの英雄、新田義貞の銅像が建っており、歴史が感じられる街である。
山歩きの会はAコースが山登り、Bコースが低山歩きか街歩きとなっている。サントリーの工場まではシャトルバスで5分余りだが、バスは利用しないで歩いた。
工場見学の午後3時までは時間があったので駅に近い高安寺を訪れた。ここは田原藤太秀郷の館跡に建てられた見性寺であったが、足利尊氏が安国利正の祈願所として再建、高安護国禅寺となった。当時は鎌倉の建長寺の末寺で臨済宗であったが、その後は北条氏の庇護を受けたり兵火に遭ったりして変遷を重ね、現在は曹洞宗の寺になっている。
境内には弁慶硯の井戸がある。これは源義経と弁慶が寺に立ち寄り、写経するために硯で墨を摺ったが、その水を汲んだ井戸と伝えられている。
龍山門という額がかかる山門には四天王ではなく「奪衣婆」の像があり、不気味な目を見開いている。寺の人の説明によると、死者は三途の川を渡る前に奪衣婆に白い衣を奪われる。婆は衣の重さで生前の罪業を判断し、閻魔大王らに報告する。その報告により死者は極楽に行くか地獄に堕ちるか運命が決まるという。奪衣婆というものが見られるのは高安寺だけであろうと寺の人は言っていた。
下河原緑道に出る。ここは南にある「郷土の森公園」まで真っ直ぐに道が伸びている。公園の先は多摩川が流れている。昔は多摩川の砂利を運ぶ鉄道が走っていた。その後が下河原緑道なのである。
緑道歩きを楽しんだ後、郷土の森公園まで行くとサントリーのビール工場の見学時間に間に合わなくなると判断し、工場に向かった。工場の手前に「御茶屋街道」の石碑が立っている。府中市本町にあった府中御殿でお茶をたてるため、多摩川から水を運んだ道という。府中御殿は正保3(1646)年に大火で焼失したと記されている。
ビール工場では45分ほど案内の女性の説明を聞きながら製麦、仕込み、発酵、貯酒、ろ過、缶詰めといった工程を見た。
その後の試飲会が楽しみであった。時間は15分と限られたが、1杯目はカップ一杯の「ザ・プレミアム・モルツ」を飲んだ。2杯目はまだ酵母が生きているもので、工場でしか飲むことができない非売品である。3杯までサービスしてくれるが、参加者9人の多くは時間的に2杯までしか飲めなかった。
帰りはシャトルバスで工場から分倍河原駅まで行くシャトルバスを利用した。京王線で聖蹟桜ヶ丘駅まで戻り、居酒屋で懇親した。山歩きの会であったが、「歴史に遊ぶ会」「グルメの会」の要素の加わり、盛りだくさんの会となった。
(川面記)
朝獲りの鮮魚やしゃれた器に盛られた会席料理で談論風発。
2013-05-26
41回目のグルメの会は5月22日、調布駅前の「四季彩調風調布店」で開いた。駅から徒歩2分。前回40分かかったのとは対照的な近さだった。
同店の外観は黒の格子がかかった隠れ家風で、参加者の中には「電車から店を見て、一回来てみたかった」と言う人が何人かいて、興趣が増した。
二階席に参加者14人(うち女性はひとり)が2列で向かい合い、まずはサントリープレミアムモルツの瓶ビールで乾杯。先付の明日葉養老豆腐、前菜の旬菜盛り合わせを楽しんで、「ちょっぴり贅沢な感じだね」ともらす参加者も。おこぜの清汁仕立てに続いて、福岡から空輸されたメジナとハトダイの刺身が出された。刺身は量の少なさが不満だったが、ゆっくりと口に運ぶと何とも言えないうまみが口いっぱいに広がった。
恒例の参加者全員によるショートスピーチでは、健康問題を語る人が多かった。「気持ちは若いが、体がついていかない。立ち上がるのもひと苦労」とぼやく人がいた半面、「夏に北アルプスに登るので、カラオケを休んで高尾山で体力づくりした」と前向きの人も。80歳で世界最高齢のエヴェレスト登頂を果たした冒険家の三浦雄一郎さんの快挙には、賛辞があがった。
「死んだら終わり。筆ペンで般若心経を書いた」という人もいた。
このころには、日本酒や焼酎、ワインなどが次々と注文され、各人飲み放題を堪能して思いのたけを語り合ったようだ。
その後料理は福子の雲丹焼き、牛舌と新じゃがの炊き合わせ、帆立真丈のひばり揚げと続き、蕎麦でしめた。デザートは豆乳チーズケーキだった。
次回は7月27日に高尾山ビアマウントで開く。若い人たちにも参加してもらおうと、この日は定例日の第4水曜日を土曜日に変えることにした。
(世話役 浅井隆夫)
2013.05(第137回) 坪 山
2013-05-26
5月18日、聖蹟桜ヶ丘駅下りホームで川面忠男さん・金子宏二さんと合流し、上杉雅好さんは、上野原駅で落ち合うことになっていた。今日の天気は数日続いている五月晴れとなり、山歩きには一番心地よい季節である。上野原駅で降車する人たちは何時もと変わらず同年輩の女性が目立っていた。高尾駅からの我々のボックスに一人の女性が、向かい側の席のメンバーから溢れて座り込んできた。鳥沢駅から扇山を目指すようである。
上野原駅発のバスは増便されていた。そのバスに誘導され乗り込んだ。満席となり直に出発する。一時間程揺られ9時45分八ッ田バス停で降りる。降車客は、我々以外数名で予想外に少なかった。
バス停から橋を渡り直に登山口となる。静かな風涼しい晴れ渡った青空の山歩きが始まった。一年のうち一番気持ち良い快適な季節であるが、その期間は極めて短い。
東西のルートの分岐で、我々は西ルートを一列になって進む。杉林に覆われた山道に並行する沢の底は、黄色い物質が広がっている。直ぐ近くに黄銅鉱跡の岩肌をくり貫いたトンネルの入口が出現した。
山道は息が切れる急登が続いている。木と木の間にロープが結ばれていた。急登の途中にイワウチワ・ヒカゲツツジの群落が現れるが、両方とも時期が遅く花は終っている。花柄だけが痕跡を残していた。川面さんのあらい息遣いが聞こえてくる。
高度が上がるに従って、イワカガミの群落地が出現する。これも花の時期には少し遅すぎたが、中には綺麗な花の残っていて、皆それぞれにシャッターを切っている。
イワカガミの群落は尾根の際から斜面全体に広がっていた。山道は険しい上りであるが、樹林の下の風は涼しく心地が良い。
なおも急登は続きロープを伝いながらゆっくり登る。息は益々あらくなってくる。我々は西ルートを進んでいるが、隣の東ルートは更に岩場が多く経験の少ない方にはお勧めできないと案内チラシには掲載されていた。突然樹林は開け、山頂の標識が立っていた。坪山山頂は広くはないが日陰になるような樹木はなく、食事をするには日差しが強すぎる。傍らで食事をしていた同年輩の登山者にシャッターを押して貰った。
この男性は急登で我々に追いつき、先を譲った男性である。今日一日の山歩きで出会ったのはこの人だけであった。
山頂から少し下った樹林の下の比較的平な場所で食事を摂ったが、傾斜があり座り心地はあまり良くはなかった。先程の男性は、我々の目指す方向へ先に出発し、再び我々だけの静かな山となった。強い陽のあたった新緑の葉の下から見る上げる緑は輝いている。
下りの急登も難儀した。痩せた尾根は特に右側の南斜面は切り立っており、樹木に覆われていなければ足がすくみそうになる。その沢をアオダモの白い花が埋めていた。
植生は上りのルートとは違い、イワウチワやイワカガミは全くみられなかった。ヤマツツジはまだ蕾の状態が多かった。
食事休憩ができる「びりゅう館」を目指す。断続的に急な下りはあるが、途中はなだらかな尾根道が続く。すっかり緑に覆われ日差しを遮る尾根道は快適であった。イカリソウの花がチラホラ見られるようになり、直に「びりゅう館」に到着した。1時間に一本のバスは、間もなく到着する時間であり、ここで休むのをやめてそのバスに乗った。帰路のバスはすいていた。坪山の春のシーズンは終ったようである。秋の紅葉のシーズンは見どころという。
聖蹟桜ヶ丘駅で下車し、大分料理の「ウラニワ」に寄り、山歩きの帰りの喉を冷たい生ビールで潤すことになった。
長張 記
今日の山歩きに俳句を金子さんから頂きました。日陰躑躅はツツジ科であるが常緑の石楠花の一種、岩鏡は岩団扇と同様イワウメ科で、花に色はそれぞれ赤と白と違う。落とし文はオトシブミ科の昆虫の総称で葉っぱを筒状に卷いて切り落とす。その中には卵が一個産みおとされている。かわいそうだったが、皆の前で確認してみた。落とし文は季語で初夏を表す。
「ひかげ路 鏡に置きし 落とし文」 望岳居
川面さんからも「下山後に記念の句を作った。自己満足の句である。」との句を掲載させて頂いた。
「急峻を登る七十路岩鏡」 凡
いねの会(カラオケ)
2013-05-21
いねの会は、原則として、毎月第三火曜日、聖蹟桜ヶ丘駅前、「麗」にて12時より開催します。金谷勇作
「歴史に遊ぶ会」で「会津戊辰戦争」史談
2013-05-19
多摩稲門会のサークル「歴史に遊ぶ会」で会津出身の星野英仁会員が5月10日「会津戊辰戦争」について語った。会津松平藩祖・保科正之の生涯をテーマにした先の講話に続くもの。会場となった多摩市の公民館「ベルブ永山」のサークル室に12人が集まり聴講した。以下は要約である。
鶴ヶ城攻防まで
嘉永5(1852)年、松平容保が19歳で会津藩主になった。京都の治安が乱れ、幕府は京都守護職を置くことになったが、守護職を引き受ける者が誰もいなかった。そこで守護職設置の推進者だった越前藩主、松平慶永が容保に就任を求めた。容保は何度も断ったが、慶永は会津藩の徳川宗家の盾になるという家訓を持ち出して説得した。家訓の第一条には会津藩は徳川宗家を大切にすべきということが書かれており、そのことは広く知られていた。容保も家訓には従わざるを得ず、家臣たちの反対を押し切って引き受けた。
京都の治安を保つためには千数百の兵力が必要で、その出費負担に会津藩は困窮した。それでも容保には天皇をお守りしなければならないという気持ちが強かった。孝明天皇からは信任された。文久3(1863)年8月、尊攘派の公卿7人が長州落ちする文久の変が生じた。その際の会津藩の働きに対してご宸翰と先の御製の歌をいただいている。
将軍家茂が上洛したが、慶応2(1865)年に大阪城で没し、その後で孝明天皇が薨去された。公武合体の主役がいなくなったわけである。
慶喜が将軍となり、大政を奉還したが、討幕の密勅が下り、慶応4(1868)年1月3日鳥羽伏見の戦いとなった。東軍(幕府軍)は西軍(新政府軍)に押され、大坂城に退いた。慶喜は大坂城から容保、松平定敬(桑名藩主)、老中の板倉勝静らを連れて軍艦で江戸に帰ってしまった。
江戸の慶喜は、容保と定敬の登城を差し止め、自分は上野の寛永寺で謹慎した。会津藩は朝廷に楯突く考えはないと嘆願する一方で、3月には守りの体制をとった。西軍の鶴ヶ城攻撃まで半年もなかった。
西軍が会津に迫るルートにのうち越後口には佐川官兵衛、日光口には総督が大鳥圭介(幕臣)、副総督に山川大蔵、白河口の総督には家老の西郷頼母を配した。
越後口は兵員数が圧倒的に多い西軍の攻撃をよくしのいだ。日光街道の山川は兵の使い方に優れ、善戦していたが、帰城命令が出て日光街道を去った。
白河口は兵員数が優っていたが、籠城作戦をとり惨敗した。西郷頼母は短気で激しやすく人の意見を聞かない性質だった。白河は守るのが難しい城であり、新撰組の斎藤一は城から出て戦うことを進言したが、頼母は耳を傾けなかった。実戦経験のある斎藤の意見を取り入れる度量がなかった。
東軍は混成部隊で連絡が十分伝わらなかったとか、重火器が西軍に比べて劣るといったことが敗因に挙げられるが、要は指揮官の人材が不足していたと言える。
西軍は8月、母成峠から若松城下に攻め込んだ。鶴ケ城に籠る戦いになったが、武器も食糧も十分でなかった。
頼母の家族は城に入らず自決した。その時の一族の死者は親戚を含め21人を数える。城内に入っても、足手まといになるのであれば、自決すべきという考えがあったようだ。
西軍は鶴ヶ城を一望する小田山から砲撃を開始した。砲弾は、城内の女子が布団を濡らして包み、爆発しないようにしたが、むろん爆発するものもあるわけで、山川の妻はそれで亡くなった。
鶴ヶ城の攻防では女子がよく戦った。籠城戦を一か月続けられたのは、「八重の桜」の八重が鉄砲を打つなど女子の働きがあったからだ。
会津戦争は、組織の戦いというよりは個人が頑張った戦いであった。参謀本部のようなものがなかった。そうしたなかで山川の指揮ぶりは特筆される。
容保と頼母
容保は美濃高須藩からの養子である。至誠の人で、京都守護職になって烈火のごとく怒ったことがあった。長州は貧乏公卿に金を与えて朝廷を動かしているのだから会津も同じように対抗すべきという提言に対して「策を弄するな」と言った。
容保は守護職を引き受けるに際して家臣たちに諮りながら自分の気持ちを伝えた。しかし、引き受ければ先行きどうなるか、誰もがわかっているので守護職引き受けに反対した。家老の西郷頼母をはじめ田中土佐も反対した。しかし、守護職を断れば、保科正之がつくった家訓に反することになり、会津藩の名をきずつけることになると考えて容保は守護職に就いたわけである。
頼母は、保科正之の養父である正光の弟の子孫である。代々家老職で容保よりも5才年長であり、また先祖以来会津の人間という気持ちがあったのか、容保に対して強く出る傾向があったように思う。
家老になった文久2(1862)年、田中土佐とともに江戸藩邸に行き、容保の京都守護職就任を諫止しようとした。翌年には京都に行き、守護職になっていた容保に対し守護職を辞めるように進言した。しかし、容保から免職にされ、会津に帰国、長原村に栖雲邸を営み隠棲した。
ところが、頼母は慶応4(1868)年1月4日に家老に復帰した。どうして復権させたのか、容保や家老たちの考えがわからない。戦は下手であり、人の使い方も知らない人物であるが、やはり門閥の人であったからであろうか。
西軍が若松城下に迫り、西郷家21人が自刃して果てたが、一族は辞世の歌を残している。妻の千恵子は当時34歳であったが、「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬふしはありとこそ聞け」と詠んだ。「なよ竹の碑」が今、善龍寺に立っている。
頼母は早鐘で鶴ヶ城内に入るが、容保をはじめ家老たちは切腹すべきだと激して言った。秋月悌次郎が止めても意に介さなかった。頼母はその後、仙台、函館まで行った。
維新後は神社の宮司になったが、西南戦争で西郷隆盛に与した疑いで解任された。頼母と隆盛にはどういうものかわからないが、何らかのつながりがあった。頼母は隆盛に何かを頼んでいる。頼んだ手紙は見つかっていないが、隆盛の返事の手紙は残っている。一つは「首尾は上々うまく行きました」というもので、もう一つは「ちょっと難しい」といったものだ、何を頼んで、何の返事なのかはわからない。頼母はかなりのお金を隆盛からもらっている。
明治13(1880)年、容保が日光東照宮の宮司に就任したのに従い、頼母は禰宜になった。容保は常時東京にいたので、頼母が実際には東照宮の宮司の仕事をした。そのことを考えると、二人は和解していたのではないだろうか。
頼母はあまり評価されていないが、容保に京都守護職を引き受けるなと言い、引き受けた後はやめろと進言したり、朝廷に恭順するように言い続けたり、それなりの人物であると思う。
(文責・川面)
What’s Jazz のジャズライブをお知らせです
2013-05-12
こちらをクリックしてください。→チラシvol 29What’s jazz – コピー (2)
多摩稲門会グルメの会の皆様
2013-05-08
第41回のグルメの会を5月22日(水)夕に、京王線調布駅から徒歩約2分の「四季彩調風」で開きます。空輸した朝獲りの鮮魚が楽しめるお店です。メニューを下記に載せました。会費は5千円、席は最多で14席に限られています。
≪満席に達しましたので締切りました.≫
記
日時 5月22日(水)午後5時、京王線調布駅の東口(新宿駅寄り)集合。時間厳守。
会場 「四季彩調風調布店」 調布市布田4-5-1。電話042ー490ー4301。
会費 5000円。瓶ビールや焼酎、日本酒、ワインなどの飲み放題付きです。
参加 参加される方は5月20日(月)午後6時までに世話役の浅井にご連絡ください。
携帯電話 090-8877-8865
メールアドレス fwkp7426@nifty.com
なお、7月のグルメの会は27日(土)に高尾山ビアマウントで開きます。早大応援部主将だった太田祐輔君とチアガールだった鈴木智香子さんが参加する予定です。定例日の第三水曜日ではなく、第四土曜日開催です。
<調(しらべ)>
先付 明日葉養老豆腐
前菜 旬菜三種盛り合わせ
お椀 おこぜの清汁仕立て
造り 鮮魚二種盛り合わせ
焼き 福子の雲丹焼き 杉板のせ
煮物 柔らか牛舌と新じゃがの炊き合わせ
揚物 帆立真丈のひばり揚げ
食事 蕎麦
甘味 うぐいす豆の豆乳チーズケーキ
以上
「山歩きの会」5月例会ご案内
2013-05-05
Aコース 坪山(1,103m)
Bコース 下川原緑道~サントリー武蔵野ブルワリー見学
坪山ハイキングは一昨年の4月に開催され、頂上で大震災の余震を感じました。イワウチワの群生地で有名となりましたが、イワカガミやミツバツツジが今、見頃となっています。緑の中の山歩きが楽しめます。Bコースは府中の緑道散策後、サントリー武蔵野ブルワリー工場見学を予定します。ご検討の上、体調にあわせてご参加をお待ちします。
1.日時 Aコース 5月18日(土) Bコース 5月23日(木)
2.予定コース
Aコース 5月18日(土)
坪山 (歩行4時間程)
○集合 (7:20)京王線聖蹟桜ヶ丘 下りホーム 7:31発急行高尾駅乗車 7:54高尾駅着 8:01発JR高尾発普通列車乗車8:25上野原駅着 8:28発郷原・飯尾方面行きバス(富士急)乗車 9:23御岳神社バス停着
徒歩開始 御岳神社バス停 西ルート→(2:00)坪山山頂(昼食)→(2:00)びゅう館・中学校前バス停 →上野原駅
中学校前発バス 14:43 15:51 17:01
○持ち物・装備
・昼食、水、間食等 服装(長袖シャツ・ウインドヤッケ・ジャンパー等)、帽子、軍手、タオル等、雨具(折り畳み傘)、ストック
雨天の場合は中止します。迷うような場合は、電話でお尋ね下さい。
Bコース 5月23日(木)
中川原緑道~サントリー武蔵野ブルワリー見学
○集合 ((13時)京王線分倍河原駅南口(新田義貞の銅像のあるところ)
高安寺(足利氏由縁の古刹)、中川原緑道を経てサントリービール工場見学(試飲)
参加ご希望の方は、金子(tel/fax 042-374-1525、
e-mail kjkaneko@suou.waseda.jp)にまでにお知らせください。
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稲門会の予定 6月22日(土)定期総会・文化フォーラム・懇親会
6月のコートのご案内です。奮って ご参加ください!
2013-05-05
6月のコートが確定しました。
●場所:一本杉公園内テニスコート
▼開催日時等:
・6月 4日(火) 8:00~10:00 Cコート・Dコート
・6月11日(火) 8:00~10:00 Cコート・Dコート
・6月18日(火) 8:00~10:00 Cコート・Dコート
・6月25日(火) 8:00~10:00 Cコート・Dコート
是非、コートへお出でください。
お問い合せは:中里 保司/Mail
to ⇒ nkzto@live.jp
オッカケたい・13年春~夏の予定
2013-05-05

昨年の早稲田スポーツは野球部が春季優勝と大学日本一、庭球部が団体戦の前人未到の大学王座アベック7連覇(男子8連覇、女子7連覇)、サッカー部が5年ぶりの大学日本一、スキー部の女子2連覇と嬉しいニュースが続いた一方で、残念ながら駅伝とラグビーはさびしい結果となりました。
好調種目は勿論、不振だった種目の巻き返しを期待して熱い応援で勝利を呼び込みましょう。
<野球>
春、秋のリーグ制覇と2年連続大学日本一を期待しています。投打共に充実していますが特に吉永の活躍が鍵になると思います。春の早慶戦は例年満員で大変盛り上がり、試合開始前の応援合戦合戦も華やかで楽しめます。6月1日(土)の第1回戦(試合開始13時)に行きます。
11時に球場正面玄関前に集合してから当日内野席券を購入して入ります。
試合後に希望者は新宿ライオンで勝利の美酒を飲みましょう。
参加希望の方は前日までに湯浅宛連絡をお願いします。
連絡先:自宅電話:042-374-9140
メール :yuasa1426@alto.ocn.ne.jp
<テニス>
連覇記録の更なる更新が期待されます。男子は主力メンバーが残りますが、しかし女子はインカレのシングルスを3連覇した絶対的エースの桑田主将を始め有力選手が卒業したので正念場です。
早慶定期戦が東伏見・早大コートで行われ、5月19(日)にシングルスの試合があります。参加される方はコートで落ち合いましょう。(入場無料)
<ラグビー>
FW7人が残る今年こそ王座奪還が至上命題です。
今シーズンの行方を占う対帝京戦が6月30日(日)に行われます。会場は三ツ沢で開始時間が4月未現在未定ですが参加希望の方は6月22日までに湯浅宛連絡をお願いします。
<サッカー>
伝統の早慶定期戦が国立競技場で6月29日(土)に19時より行われます。昨年の主力メンバーが多数卒業したので今年の戦力を測る大事な一戦です。
18時30分に国立競技場千駄ヶ谷門切符売り場前で集合しましょう。
参加希望の方は6月22日までに湯浅宛連絡をお願いします。